「疑問に思う」ということ

子どもがそもそも「疑問に思う」ということについて考えてみよう。
このことは簡単なようでいて実は大変複雑である。
人が何かについて「知りたいと思う」のは、いろいろな背景を背負った話だからである。

かつて、ある大学生が子ども(小学校1年生)に算数の問題を与えた。

「たろうさんはあめを3こもっていました。
おかあさんがあめをいくつかくれました。
いま、たろうさんはあめを7つもっています。
おかあさんはあめをいくつくれたのでしょうか。」

この問題に対して、その子はだまって考え込んだままであった。
「どこがわからないの」とたずねると、「おかあさんがあめをいくつかくれました」
というところを指して、「ここがわからない」という。

それで「うん、そうだね。どうやればわかるかな」とたずねるとまただまりこんで
しまった。しばらくして、「どう、考えてみたことを話してごらん」とえながすと、
「いったい、どうしておかあさんがくれたあめの数がわからないのかが
わからない」という。

なーんだ、そういうことか、と納得して、
「それはね、おかあさんがあめを袋にいれてくれたのを、数えずにぱっと出して、
いままでのとまぜちゃったの」というと、晴れやかな顔になって、
「それなら、わかる」といい、「3,4,5,6,7」と指を折って、
「4つもらったんだ」と答えたという。
(佐伯胖:新・コンピュータと教育、岩波新書508)