菌類研究の最近の話題と分類学の基礎教育

ii.菌類のDNAと系統進化 遺伝情報とDNA

遺伝情報は親から子へ受け継がれます。その 情報はDNAの塩基配列として記されています。 菌類においても、胞子形成の際に遺伝情報を胞 子へと受け渡します。胞子は一つの細胞であり 細胞は生物の最小構成単位です。遺伝情報 (DNA)は細胞内の核に存在します。多細胞生 物も最初は一つの細胞から出発し、分裂を繰り 返し、そしてまた子へと遺伝情報を受け渡しま す。しかし、生物は親から受け継いだ遺伝情報 をそっくりそのまま子へ受け渡すわけではあり ません。受け渡すDNAは変化(変異)していま す。また、両親の遺伝情報が混じりあって子へ と渡されます。その結果、38憶年もかけて生物 は現在のように多様化しました。もし、生物が 全く同一の遺伝情報を子孫に受け渡すのであれ ば、それ以降多様性は生じず、クロ−ンとよば れる同じ遺伝情報をもつ個体ばかりの世界にな るでしょう。今日ではDNAが受けた変化を追跡 し、そこから生物の系統進化を解明することが 行われています。

遺伝情報としてのゲノム

遺伝情報がDNAに塩基配列として記されてい ると述べましたが、その配列は機能単位として の遺伝子の集合体です。配偶子に含まれている すべての遺伝情報をゲノムとよびます。現在、 多くの生物の全ゲノム塩基配列を解読するプロ ジェクトが行われており、さらにポスト・ゲノ ムシークエンスとしてそこに刻まれた遺伝子の 働きを解析する研究も盛んです。ゲノム研究に おける最終的な目標は遺伝子一つ一つに刻まれ ている役割(機能)を明らかにすることです。 さて、全ゲノム塩基配列が決定された菌類は現 在のところ一つであり、酵母 Saccharomyces cerevisiae の12,052,000の塩基対、6,183の遺伝 子の存在が報告されています。この酵母は遺伝 学研究のモデル生物として長く研究されてきた にもかかわらず、まだまだ未知の遺伝子が数多 く存在していることが明らかになり、現在ポス ト・ゲノム研究が進行中です。 生物の多様性は遺伝情報の変化によりもたら されたと上述しました。実際、全ゲノム塩基配 列の決められたバクテリア大腸菌では4,639,211 塩基対、4,289の遺伝子が存在していると発表さ れました。酵母と比べるとゲノムの長さに比べ、 遺伝子の数は近いといえます。ちなみに現在発 表されている最も短いゲノムを持つ生物は細菌 Mycoplasma genitalium であり、580,073塩基 対、467の遺伝子が存在していると報告されまし た。短いものが祖先的であるかというとそうで はありません。現存生物のゲノムの多様化(遺 伝情報の変化)機構が明らかにされるのはまだ 先のことでしょうが、現在多くの生物の全ゲノ ム塩基配列決定プロジェクトが爆発的に進行し ており、遺伝情報の変化に関する規則性も見つ けられようとしています。また、複数の菌類で ゲノム・プロジェクトが進行中であり、これら の遺伝情報を詳細に比較することにより、菌類 の特徴がより鮮明にクローズ・アップされるで しょう。

遺伝情報と生物の系統

遺伝情報が親から子へ受け継がれると冒頭に 述べましたが、遺伝子の一部は異種生物間を転 移している(していた)ことが明らかにされて います。このような遺伝子の転移を水平移動と よびます。また、ウイルスなどによって遺伝子 が運ばれ宿主側の遺伝情報に入り込むこともあ ります。遺伝子レベルで考えると、生物の最小 単位として細胞を扱えるのか疑問です。生物は 何かという問題は永遠の問題なのかもしれませ ん。はたしてゲノム配列の比較から答えること ができるでしょうか。また、一方では菌類とい う系統群が存在していることも紛れもない事実 です。一見、遺伝子の水平移動と矛盾するよう ですが、遺伝情報の変化という点では生物の歴 史に合致しているといえます。変化することは 生物の宿命であり、その変化の仕方が同じよう なものはそのような情報を共通祖先より伝承さ れたのではないでしょうか? 菌類という生き 物の生き方(意識的な意味は含みません)に共 通点があり、それが遺伝情報であるDNAに刻ま れていると考えることができるのではないでし ょうか。

菌類の分子系統学

菌類のDNAに刻まれた菌類としての生き方を 探りつつ、菌類はいかに多様化したのか研究さ れています。例えば、複数の研究者によって、 異なる遺伝情報がそれぞれ比較されたところ、 菌類は植物よりも動物により近縁であることが 示されました。また、菌類系統群内においては、 一般に言われている高等菌類である担子菌類と 子嚢菌類はそれぞれ単系統群を形成し、それぞ れが姉妹系統群として成り立っている一方、い わゆる下等菌類である接合菌類と鞭毛菌類のツ ボカビ類は単系統群を形成せずにお互いが混成 していることが示されました。菌類のDNAから その系統進化を探るために特筆すべき技術的な 進歩としては次のようなトピックスを挙げるこ とができます。培養できないが、その存在が明 らかな生物由来のDNAの断片を増幅できること。 胞子一つよりDNA断片を増幅できること。乾燥 標本由来のDNA断片を増幅できること。琥珀に 閉じ込められた数億年前の生物化石由来のDNA 断片を増幅できること。これらの増幅されたDNA の塩基配列を解読できること。このような技術 により菌類の進化に関する新しい知見がますま す得られることでしょう。 (東京大学分子細胞生物学研究所 西田洋巳) (国立科学博物館ニュース 第375号 2000.6.20)

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