人を殺す話


日本でも有名なコミックの作者の話を聞いた。
なるほどと思う反面、私ならという考えもわきました。
あえて、このコミック作者の名前は書きませんが、みなさんにはわかるはず。
ここで、本人の許可も得ず紹介して、私の考えを書くのもどうかと思わないわけ
でもないが、要するに人気コミック作家を紹介しながら、このテーマについて
私の考えを整理してみたいのです。
あのコミック作者を否定しているわけではなく、あのコミックをだしにして、
人間社会のルールとか倫理観を考えるわけです。
人間を殺すこと

依頼人に頼まれて、人間を殺すことを職業にしている男。
このコミックは連載されて、はや31年続く。
それだけ読者に評価されているということだろう。
相手にされなければ、とっくに連載は中止。

なぜここまで続いたかというと、一貫したものがあるから続けられたのだという。
その一貫性とは、作者の考えが反映されているからだという。
すなわち、主人公の価値観には、作者の価値観が反映されている。

主人公の価値観は明らかに、社会のルールにはあてはまらない。
殺人を行いながら生きているのだから。
主人公の心の中はともかく、反省とか心のためらいの描写はない。

しかし、作者は、この世には善悪の価値観はないと考えている。
人を殺せば○○の刑がある、というのは社会の約束(ルール)である。
それは、時代によって、国によって、様々であるということから
考えても、そこに住む人間たちの約束といえる。

昔は一人でストーリーを考え、そして絵を描いていた。でも、それでは一人の限界がある。
そういうわけで、ストーリーを完全なものにするためにも、資料を調べる係り、
あらすじを考える係り、絵を描く係りと、分担してスタッフでコミックを描く方式を
考えた。この方式を日本で実施した最初のコミック作家であった。

文章はごまかせるが、絵はごまかせない。
だから、背景の絵ひとつ描くのにも、よく調べて描かないといけない。
資料集めが大変。資料集めができたら、半分も仕事が終わったようなもの。
 川崎のぼる、小池一夫はかつて弟子だった。

            ☆     ☆     ☆

作者の語るように、人を殺したら○○の刑がまつ、というのはその社会のルールである。
死刑廃止の国もあるし、死刑が行われている国もある。死刑も石を投げて殺す国がある。
人を殺したといっても、正当防衛が認められたら、(日本でも)罪にならない。

しかし、宗教は殺人を認めない。キリスト教も仏教も殺人は認めない。
罪と罰の主人公は、社会に無益な存在の金貸し老婆は、役に立たないどころか
有害な存在である(生きる資格がない)と考えて、その老婆を殺す。
自分は将来性のある大学生であるから、有害な老婆を殺して、その金を奪って使う
のは社会のためになることであると考えたのだ。
ここまでは、理屈どおりの仕事をしたのだから、主人公に反省はない。

しかし、現場を見られた、関係のない老婆の姪をとっさに殺してしまう。
それが主人公には計算外のできごとであった。
主人公は無意識のうちに、心にひっかかるものがある。
だから、主人公のことを心配してくれる、家族のために犠牲的に働いている
かわいそうな娘にだけは、真実を語ってしまう。

まさか、彼は自分の殺人行為を認めてもらおうとは思わなかっただろうが、
この親切な娘にだけは真実を話したかったのだろう。彼の心の中で
神を求めていたのではないかと思う。
理屈では、金貸し老婆を殺すことは悪いことではないと考えても、
その他に無実の人間を、目撃者だからという理由で殺したことに
何かこだわりを感じていたのだろう。

あのコミックの請け負って殺人を行う主人公の場合、たいてい標的になるのは
悪人という配置になっている。
海外で殺人を犯す話が多いのも、日本の読者に対して
抵抗感を少なくするためだろうか。
また、殺人ではなく、目的物を破壊することを依頼されることもある。
この場合は殺人ではないから、読者に対しても罪悪感が少なくなるだろう。

我々は時代劇ででも、悪人は懲らしめられるべきだと考えているようだ。
水戸黄門にしても、悪人は最後に罰を受けることになっている。
悪人も程度がひどく、もう何十人も殺して、悪の限りをつくしているような者は
誰かバッサリやってくれないかと、みんな考えるようである。
だから、そういう悪人が最後に倒され、殺される話を
スッキリした気分で受け入れるのだろう。
勧善懲悪は時代劇だけではない。西部劇にもごまんとそういうストーリーがある。

日本の江戸時代や西部の開拓時代だけでなく、現代にも悪人はいる。
こんなやつは生かしておきたくない、そう思う人間がいるとき
コミックの世界で、それを見せてくれたら読者は気分爽快になる。

悪人でも、反省すれば、ゆるしてあげようというのは、神や仏のような絶対的存在。
人間はそんなことができないのだ。
人間は、心のどこかで、悪人は罰せられるべきだ、場合によっては殺されるべきだ
と考えているのであろう。

だから、仕事人シリーズのような、請け負って悪人を殺す話が
テレビ番組でも続いたのだろう。
この必殺シリーズも、考えてみると、このコミックと共通点がある。

某女流作家が書いているように、文学とは、あるべき模範的な人間の姿を書くのではなく、
生身の、どうしようもなく欲望にとりつかれ、だらしなかったり、感情に
流されて、弱いおろかな人間の姿を、真実にせまって追求するものなのであろう。

この世の中の不条理にいきどおりを感じて、極悪人を懲らしめたいと
考える人間の感情のある限り、このようなコミックはなくならないだろう。
(アガサ・クリスティのオリエント急行殺人事件や、そして誰もいなくなった
の話は、悪人は罰せられるべきという哲学にもとづいている)

人間もそんなに完ぺきな存在ではなく、悪を憎む我々だって、自分のすべてを
反省すれば、小さな悪をおかしているのだけど。本人が気がつかないだけではないだろうか。