「赤い靴 はいてた 女の子 異人さんに つれられて いっちゃった」
この「いじんさんに」も「いい爺さんに」と思っている人が少なからず
いるという(ちびまる子にもそういう誤解をしたことが書かれている)。
赤い靴は大正10年の作品、南米に出稼ぎに行く日本人が目立ったころで、
時代背景と
ともに多くの人に歌い継がれてきた。
野口雨情作詩、本居長世作曲。
歌のモデルは清水市(現静岡市)出身の岩崎きみ。
明治35年7月に当時の不二見村(現静岡市清水区宮加三)で生まれ、
間もなく母・かよと二人で北海道に渡ったが、母は再婚して開拓地で
暮らすことになり、3歳の時に米国の宣教師ヒュエット夫妻に引き取られたという。
数年後、宣教師夫妻が帰国する際に、きみも一緒に米国に行くことになっていた。
しかし、結核にかかっていたことがわかり、
療養のため東京・麻布の孤児院に預けられ、9歳で亡くなった(明治44年9月)。
きみが「赤い靴」のモデルだとわかったのは、
作品が発表されてから約60年も後のこと。
赤い靴をはいた女の子は私の姉です、と昭和47年に北海道に住む
故・岡そのの投書が北海道新聞に掲載されたのがきっかけだった。
そのは、かよが再婚後にもうけた、きみの妹にあたる。
同社の記者・菊地寛氏が追跡にあたる。
北海道から横浜、アメリカ、(当時の)清水市と赤い靴の足どり調査は、
ふだんの取材の合間をぬって約6年間におよんだ。
その結果、さすらいの詩人野口雨情と、開拓を挫折して札幌に移住したかよの夫は、
菊地さんと同じ北海道新聞社に勤務していたことがあり、
かよは別れ別れになったきみの生い立ちなどを、よく雨情に話していたこともわかった。
主人公・きみの生家は静岡市清水区の日本平のふもとにあたる。
当時の清水市は61年春、日本平に寄付金などを募って母子像を建てた。
麻布の孤児院で亡くなったきみちゃんの像パティオ十番(麻布十番)