野口雨情記念館に行って来ました。
常磐線磯原下車 タクシー5分。
開館時間 9:00-16:30
休館日 月曜日 12月29日〜1月1日
実は北茨城市の歴史民俗資料館と一緒になっています。
ざっと見学した印象では、他の文学者や詩人の記念館にくらべて資料が少ないようです。
これから資料が増えていくことでしょう。
雨情交遊録のなかに石川啄木があったのです。
どうやら啄木の短い北海道時代に二人の接点はあったらしい。
(小樽日報創業時代) まさに一期一会
他にも、中山晋平(あめふりお月さん、船頭小唄、證城寺の狸囃子、波浮の港など多数共作)、
本居長世(十五夜お月さん、七つの子、青い目の人形、赤い靴の作曲者)など
当時の有名人が多数紹介されています。
北原白秋と西条八十と野口雨情は童謡詩人の三巨匠といわれたそうです。
佐藤千夜子は雨情の作詞した波浮の港でデビューしたのです。
證城寺の狸囃子
この歌が広まると、モデルとなった證誠寺の住職から不謹慎であるとクレームがきた。
そこで雨情は、「證誠寺」ではなく「証城寺」だと抗議をかわしたという。
歌が流行るにつれ、木更津にあるこの寺は有名となって参拝者が増えたものだから、
ついに昭和31年に境内に「狸ばやし童謡碑」が建立された。
波浮の港
雑誌「婦人世界」の編集者が一枚の絵葉書を持参して、雨情を訪れ
「この写真を雑誌の巻頭にしたいから、それにふさわしい詩をつくってほしい」と
注文したできた詩である。数ヶ月後に雨情宅を訪れた中山晋平に、この詩を
つる夫人が見せたところ、この詩を気に入った中山晋平が作曲した。
大変流行ってから、「波浮の港は東南を向いているので夕焼けはならないはず」とか
「鵜の鳥は大島には棲んでいない」などと指摘され、
雨情は苦笑いしながら「あれは実は平潟をモデルにしたもんでヤンすから」と言ったそうな。
(平潟は北茨城市にあります。福島との県境です)
船頭小唄
詩壇復帰をめざしていた38歳頃の雨情は、焦燥と失意の中にあった。
彼を慰め励ましたのがつる夫人だった。この詩はその心象風景だった。
作曲を依頼された中山晋平は、雨情の提案した曲も全然あわないと無視し、
この詩はいやに暗い詩なので、読んだだけで泣き歌になってしまうと、
原題「枯れすすき」を「船頭小唄」に改めることを提案したという。
「波浮の港」にヤレホンニサの囃子言葉を入れたり、
「枯れすすき」を「船頭小唄」に改題させるなど、作曲家中山晋平は、
救いの神だったが、彼の提案を素直に受けいれた雨情も心の広い人だった。