盛岡市出身の浅野七之助がサンフランシスコの自宅で、
3月6日(日本時間7日)死去した。 98歳だった。
郷土の先輩、原敬の書生となり、中央大学で学んだ後、
大正時代に東京毎夕新聞記者特派員として渡米、
1924年から朝日新聞米国西部沿岸通信員を務めた。
サンフランシスコの代表的邦字紙「日米時事」を発刊し、社長となる。
在米日本人、日系人の権利擁護、拡張のための民権擁護協会、帰化権獲得同盟
に参加した。
(戦前、日本人の土地所有を事実上禁じた法律が成立したり、日本人に帰化権
はないとの最高裁の判断が出されるなどの排日の動きに対して、言論の場で対抗した。
裁判闘争を支援したり、日系人の権利擁護、地位向上を求める論陣をはった)
アジアの困窮者を救うために米国で設立された団体による「ララ物資」の父と
までいわれた。
(敗戦の日本に、米国のクェーカー教徒らの協力を得てミルクや衣類などの
「ララ」物質を送り、子供達を飢餓から救ったことは忘れることができない)
日米親善と在留邦人の地位向上に貢献したことで、勲三等瑞宝章を授与された。
県勢功労授賞の感想として啄木の歌「ふるさとの山に向かいて言うことなし...」
の心境だと語ったという。
永住権は持ちながら、米国国籍は取らなかった。望郷の国際人だった。
浅野七之助のことを調査研究され、著書を書いた岩手大学教育学部の
長江好道先生は平成10(1998)年8月4日に逝去されました。
長江先生は科学談話会にも講演されました。(第453回 在米日系人の歴史、平成3年2月15日)