香港旅行記(4)

16回目から17回目まで

香港旅行記 その17

香港の小さな民俗博物館
李鄭屋博物館  後漢時代のアーチ天井古墳
Lei Cheng Uk Branch Museum

三棟屋博物館で客家の家屋を見てから
まだ時間があるから、もう一つの博物館を見ることにした。

こちらは私には大変興味のあるものであった。

移動するため
全(草冠)灣(Tsuen Wan)站から地下鉄で長沙灣(Cheng Sha Wan)站
に行った。

全(草冠)灣(Tsuen Wan)から7つめの駅である。
駅に降りたら、李鄭屋博物館の方向案内板があった。
ぶらぶらと、そちらの方向に歩く。

もう3時すぎなので、何か食事がしたい。三棟屋博物館は駅そばで
そこで食べるより次の博物館に移動してからの方が時間にあせらなくて
よいと考えたのであった。

商店街が見えてきた。博物館に向かって歩いている道と商店街はクロスしている。
燒賣(シューマイ)や飽類(まんじゅう)が蒸篭(せいろ)で蒸している
のを見て、店の中に入ろうとしたら、店主のおじさんが何かいう。

どうやら休み時間らしい。

ヨーロッパでも昼食時間と夕食時間にレストランは開いて、間の時間は
閉めている。

日本のように連続して開いているレストランは少ない。

しかたなく先へ歩いたら、別の店が目についた。

盛岡にあるような町の小さなラーメン屋さん風。
10人も入れば満員になりそうな店。

中には中国人ばかり。外国人がいなくて native という店に入ると
安心する。値段も手頃。そこには特有の文化がある。

メニューを見て注文したのは
雲呑麺 (14ドル) 207円
水餃労(手偏)麺 (19ドル) 281円
凍檸檬可樂 (11ドル) 163円

はたして出てきたのは
ワンタン麺
水ギョーザと焼ソバ(風)
レモン入りコーラ(氷つき)

予想がはずれたのは撈麺だけ、あとは予期した通りのもの。

この撈麺は始めて見たが、後でガイドブックを読んだら
湯麺(タンメン)は日本のラーメンに相当するが、
撈麺は汁のない麺で、焼きそばと異なり、ゆで麺の上に
いろんな具をのせるものである。

やわらかい焼そばという印象だった。

後日、中国料理にくわしい人から説明を聞いた。
撈麺は、作り方がすごく簡単で、
少し腰のある麺をゆでたあと、お皿に適当なタレ(ネギを炒めたあぶら、醤油、
ゴマ油、コショウetc.場合によってはカキ油)と卵焼きの薄切り、
ハムなどこれも適当に載せておき、ここに麺を載せて混ぜる(撈)だけ。
冷やし中華のように冷さない。
温かいまま(ミートスパゲッティのように)食べる。

なお最近盛岡のカワトクデパート(アネックス)食料品売り場に
「撈麺」の乾燥麺が並んでいたのを発見した。
日本でも材料があるから作られます。 

池記粥麺茶賓庁という立派な名前の店だった。

このあたりは、いわゆる庶民の住宅地で
集団アパートが多く、これから見学する後漢時代の古墳も
アパート建設工事の際に1955年に見つかったものという。

花輪君と対照的なまる子のような庶民の暮らす町の食堂なので
経済的に食事ができたわけだ。

この店で、目指す博物館の場所を聞いたら
もっと先へ歩けと言われた。

(たぶん私の英語は理解されず、彼らの広東語も私にはわからない。
私の示した漢字を見て、方角を指差すから見当をつけたわけです。
body language は international)

5分も歩いたころ静かな住宅地になったので
通りがかりの年配者に聞いてみた。

こちらの英語が通じたのか、あるいは私の示した漢字がわかったのか
おじいさんの指差す所は、すぐ向かい。

示されたのは公園で、いかにも中国の公園、あの太古石を置いてある池や
古風な東屋がある。

公園には地図があったから、それを見て理解できた。

目指す博物館は、この公園の一角にある。(地図では右上の場所)
行ってみたら思ったより小さい博物館であった。

客家の博物館も小さいといえば小さかったが、この古墳の場合は
受付を通ったらすぐのホールに展示物(埴輪の家や食器の焼き物、つまり土器)
があって、その外の中庭に問題のアーチ天井の古墳があるだけ。

たった2カ所の見学なので、(駆け足旅行者なら)3分で終わってしまう。
 客家の博物館の中の小部屋を見て回れば30分はかってしまう。

しかし、石アーチの古墳を見るのに憧れていた私は
しばらく見学した。

遺跡保存のため、古墳には近寄れず、遠くからガラス越しに見るだけ
であったが。

京都の土産八ツ橋を2つ交差した構造になっている。
トンネルアーチの交差部分は、立体曲面が数学できちんと解析されたように
秩序だてて石レンガが積まれているのには感心した。 パチパチパチ。

後漢時代(25ー220AD)といえば
新の王莽(おうもう)に前漢を滅ぼされた漢一族の劉秀が
光武帝として即位してスタートした王朝。

紀元前202年に劉邦がたてた漢王朝が一時期、王莽の新によって
中断されたわけですね。

そして漢王朝は紀元220年に曹操の子、魏の曹丕によって
皇帝献帝は廃され(後漢の滅亡)、三国時代となるわけですね。

劉備は劉の字の示すよう漢王朝の子孫なのだからというわけで
成都に蜀(漢)を建てるわけですね。

当時の日本はといえば、魏に遣使をやって「親魏倭王」の印を受けた
邪馬台国卑弥叫だけが、魏の書に記録されているだけです。
自分の文字をもたないから、自分で記録していなかった。

そういう昔むかしの時に、都を遠く離れた香港の九龍半島に
レンガ造りのアーチ天井の古墳があったのには驚きます。

三国志を読むと、建物も武器も現代文明とそう離れていないから、
当時も高い技術レベルがあったとは思いますが、レンガ石を積み上げて
アーチ構造を造る技術には感心します。

そもそも最初の石積アーチはチグリス、ユーフラテス地方に見られます。
アッシリア遺跡の確認されます。

私は昨年の夏に東京上野で大英博物館アッシリア展を見て
感心したのですが、その数カ月後に実際にロンドンで大英博物館の全容を
見るとは思わなかったので、大変な人込みの中で貴重な展示物を
見てきたのです。

ロンドンでは、もっとすごいものが沢山あって、アッシリア展示は
十分見る価値はあるのですが、その場所に見学者はそれほど沢山集まっては
いませんでした。

日本にいても貴重な美術品や文化遺産が見られるのはありがたいことです。
たぶん円の力が強いから、大金を払って海外から貴重な文化遺産を借りて
来られるのでありましょう。

(いつ日本の国力が低下して、円の力が弱くなるかわからないから
今のうちに国内で見られる海外文化遺産はできるだけ見ておいたほうが
いいかもしれません)

アッシリアで発明された石アーチは、建築物や橋に応用され
ローマ人の手で大きく発展しました。

今日の西洋キリスト教会のアーチ天井あるいはアーチ窓を見ればわかります。
ローマやパリの石アーチ橋は数百年から数千年の月日に耐え生き残っています。

一方、中近東から諸々の文明文化が伝播し中国に伝えられ
最初は王族の地下の墓のアーチ天井として用いられ、やがて
石アーチが建設されました。

中国の石アーチはシルクロードにより西から伝わったと私が言ったら、
中国人はいや中国人が独自に発明したと頑張られましたが。

まあ、それは今後の研究ですが、
中国から朝鮮半島に伝わった石アーチ技術は、朝鮮には
確かに古代の石アーチが残っており、アーチ古墳すら残っています。

6世紀公州宋山里武寧王陵が有名です。

韓国観光局から、この古墳アーチのスライドを借りた私は
許可をもらって複製したスライドを学会で発表に使ったことがあります。
(いつの日か公州宋山里武寧王陵を見たい)

しかし当時の日本には飛鳥の石舞台古墳のような、ただ石を積み上げた
古墳しかありません。

圧縮力を伝える構造で広い空間スパンを乗り越える
アーチの技術、これが始めて日本に橋として実現したのは
江戸時代の長崎の眼鏡橋です。

これは長崎に移り住んだ中国人が
長崎で成功したお礼にと中国から技術者をよんで架けたとされて
います。

(琉球の座喜味城のアーチ門は1420年ころのものといわれる)

遣唐使などたくさん渡航して、当時の日本人によく見られているはずの
玄奘三蔵ゆかりの大雁塔の窓もレンガで造られたアーチになっているので
当時の日本人が技術導入をはかれたはずなのにと思ってしまいます。

支保工などアーチ技術は難しい上、試みられた石アーチが地震などで崩壊して
から、日本に根付かなかったのでしょうか。

あるいは日本には木がたくさんあって、わざわざ石やレンガを使って
までも建設工事をしなかったのでしょうか。

日本の古代アーチ技術の調査 私のライフワークの1つです。

アーチの力学を大学で学んでも、
実際にヨーロッパへ行って、南ドイツの町フライブルクの教会の中に入って
高いアーチ天井を見て、何百年もかけて1つ1つ石を積んだ苦労の技術と歴史
を思い、
また中国でアーチ天井を見た時の感動は忘れることができません。

最初に、中国のアーチ天井の墓を見たのは、北京の明十三陵でした。
ここは代表的な観光地ですから、中国に行った人は誰でも見るでしょうけど。

豊臣秀吉と同時代の明の皇帝の地下の墓に入って、あまりにも立派な
アーチ構造物に驚きました。

この皇帝は生きているうちに建設を命じて
驚くべき費用をかけて造らせたそうです。

秀吉による朝鮮侵略
それで朝鮮半島に援軍を送った費用などで、明の国家財政は悪化し
明王朝の崩壊を招いたと言われています。

この明の墓を見て驚いたもう1つのことは
皇帝を中心に左右に2人の皇后の棺があったことです。

考えてみれば、ラストエンペラーにも2人の皇后がいた。

悪名高い西太后も東太后と一緒に皇帝の妃となっていたわけです。

世界的にみても今世紀まで、第2妻がいた王国はあったようです。

いま博物館で入手したパンフレットを見ています。
地下鉄の駅から東京街(Tonkin Street)を真っ直ぐ歩いて
5つの大きな通りをすぎると左手にあります。

この後漢時代の古墳のことを中国人留学生に話したら
中国本土にぜひ見学にくるよう改めて誘われました。

観光として有名なものは西安郊外の漢代や唐代の陵墓ですね。

洛陽にもあるそうです。洛陽も昔から王朝がたくさんありました。
中国の東北地方にも発見されています。

いつかまた中国に行けるでしょう。毎年招待状はもらっているのですが
なかなか忙しいのです。

         

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