香港旅行記(1)

1回目から5回目まで

香港旅行記 その4

香港歴史博物館と阿片戦争

ホテルは九龍公園のはじにある。
この九龍公園の中に香港歴史博物館がある。
他に何も見なくても、この香港歴史博物館を見れば十分と思う。

香港歴史博物館には、考古学、民族学、美術工芸、伝承慣習、
農耕漁業など、いわゆる博物館にふさわしいものは何でも展示している。

しかし建物が小さいせいか急げば30分で全部見ることができる。

昆虫の標本も少しではあるが展示されていた。
香港は台湾の南に相当する緯度なので、
南方系の美しいアゲハチョウの標本がいくつか展示されてあった。

香港の蝶の切手

香港の歴史にとって阿片(アヘン)戦争は重要な出来事である。

第一次アヘン戦争(1840-42)
 18世紀後半、イギリスは清国から茶・陶磁器・絹織物などを輸入し、
代金を銀で支払っていた。イギリスは銀が不足しその対策として植民地の
インドでアヘンを栽培させ、そのアヘンを中国で売ることを思いついた。
アヘンは売れてイギリスは銀をとりもどしたが、アヘンを長く吸っていると
廃人となり、清は国民の健康をおかすアヘンを禁止した。禁止にも
かかわらずアヘン患者は増え続け、1800年ころには200万人の
アヘン中毒者がいたと言われる。また中国から代金として銀が支払われ、
中国の銀が不足するようになった。清の道光帝は、林則徐に命じてアヘンの
取り締まりをおこなわせた。林則徐は外国貿易の行われている広州に行き、
イギリス商人からアヘンを取り上げて焼き払った。これに対してイギリスは
軍艦を広州に派遣して、アヘン戦争が始まった。イギリスは林則徐の軍隊の
抗戦力を認め、作戦を変え上海や南京を攻撃したので、
清朝は8月に南京条約を結んで、イギリスに香港をゆずり
渡した。そして上海・広州など5港を開港した。

第二次アヘン戦争(アロー号事件)(1856-1860)
 広州でイギリスの国旗をかかげたアロー号が、清王朝の役人の取調べを
受けた。役人は、アロー号の中国人船員を海賊としてとらえ、国旗を引き下ろす
という事件が起こった。イギリスはアロー号事件を口実に、宣教師の
殺されたフランスを誘って軍隊を中国におくった。
1858年イギリス・フランス連合軍は広州を占領し、
さらに1860年には北京を占領し、離宮であった円明園
を焼き払った。やむをえず清はイギリス・フランスと北京条約を結んだ。
清王朝は天津・南京など11の港を開港し、キリスト教の伝道の自由を
認めた。そして九竜地域を割譲した。

 列強の中国進出が進み、日本やロシアなどが中国に鉄道を作る権利を
得たりするようになった。

 このように中国大陸が列強によって半植民地化が進んでいく中で、
さらに1898年にイギリスは、香港防衛を口実に九竜半島を
99カ年の期限で清国から租借した。

1997年に香港が返還されるというのは、まさに九竜半島租借から
99年後であった。 イギリスは約束を守ったことになる。

   ☆     ☆     ☆

アヘンを中国に売り貿易のバランスをとった英国。
もっと他に売るものがなかったのだろうか。
イギリスの陰の部分として歴史に残ってしまった。

水沢の後藤新平記念館には、後藤新平が台湾総督府民政長官として
当時台湾にはびこっていたアヘン吸飲の習慣を法律で禁止し
アヘン中毒者の治療厚生に努めた資料が展示されている。

台湾も香港も同じ時期にアヘン中毒者が蔓延していたのであった。
この後藤新平の行為は台湾の歴史の中で高く評価されるだろう

香港旅行記 その5

香港歴史博物館の印象

清朝末期の中国の歴史を物語る当時の写真や遺物が展示されていたが
控えめな印象だった。

アヘン戦争の頃の香港の写真

1940年代に占領した日本軍の鉄カブト、旭日旗もあった。

私がこの香港歴史博物館で最も印象を受けたもの
結局、香港で一番心に残ったものは
当時の中国の薬屋の店を保存したものだった。

山のような薬や薬の材料がきちんと箱に入れて整理されていたり
篭に入れられて両脇の棚というか天井から吊るされた入れ物
などに、まるで倉庫に保管するように
どっさり置かれていた。

そして、当時このような店が広州一帯にあったという説明に
さもありなんと思った。

横浜中華街にも昔ならありそうな雰囲気の店だった。
古めかしく、だから、この店の薬はききそうに思われる。

店の中に吊るされた風鐸(ふうたく)のようなものに気がついた。
これは一種の明かりであろう。つまり電灯のない当時の照明。
奈良や京都の寺院の屋根に下がっている風鐸を思いだした。

形だけみると、いわゆる中華料理レストランの天井から下げている
中国式行灯と同じだが、中華レストランのそれは紙と竹でできていそうで
この伝統的漢方薬店の風鐸はどっしりとした金属製のように思われた。

風鐸は日本の寺院にもある。屋根の軒の四隅のところに下げられた風鈴。
この香港歴史博物館にあったものは照明の一種で別のものである。

 甃(いし)のうへ
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音(あしおと)空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ
廂久(ひさしひさし)に
風鐸(ふうたく)のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃(いし)のうへ
   (三好達治、測量船)

         

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