哀愁のベルリン

東京の古書店で東西分割当時のベルリンのことを書いた本を買ってきました。
>哀愁のベルリン(青木利夫、サントリー博物館文庫)。
>著者は新聞記者としてヨーロッパ滞在が長く、
>1959ー61年にベルリンにいた。

私が1989年10月末に中国にいて、短波放送で刻々東西ドイツ統一の
動きが報道され11月にはとうとうベルリンの壁が開放されたのであったが、
この本にはまだそういう出来事を予想するものは何もない。
ドイツ人誰もが分断されたベルリンの非情な運命に嘆き、ドイツ統一など
夢のまた夢であった。

ベルリンの壁が出現したのは1961年8月13日の朝である。
壁はコンクリート打ちっぱなしというようなものであるが、
この壁を命がけで乗り越えて西側へ逃げようとして墜死したり、
射殺されたりした人びとの墓標があちこちに立ち、いつも花束
が捧げられている。

それから数十年たち壁は極彩色の落書き板のようになった。
落書きや何だか分からぬ絵や色が塗りたくられて、ちょうど
ニューヨークの地下鉄を思いだす。

西ベルリンに住んでいた著者が1960年代のはじめに
ほとんど毎日のように東ベルリンを訪れていた。
(彼は新聞社の特派員)
西の繁華街クーアフュステンダムの裏側にある動物園駅(ツォー)
で、切符を買って東行きの高架電車に乗ると、いつのまにか境界線を越え、
10分ほどで東ベルリンの主要駅フリードリヒ・シュトラーセに着く。
すこぶる陰惨な感じのビザ・荷物検査を通り、入国料(当時は5マルク
=約500円)を払い、一定額の通貨を交換して駅を出ると、
そこはもう共産圏だった。

当時、東がどれほど物資不足に苦しんでいたかは、西ベルリンの新聞
でもくわしく報道されていた。しかし実際に町を歩き、すすけた
小売店に置いてあるしなびた野菜をみると、なるほどと合点がゆく。

西ベルリンと東ベルリンの驚くべき落差は、おびただしい亡命者
だけでなく、たえまない東側市民の要求不満となって党をゆさぶった。
そのあらわれが、ソ連による西ベルリン封鎖(1948)であり、
東ベルリンの暴動(1953)であり、最後のとどめが
ベルリンの壁構築(1961)だったのである。

東ドイツから西ドイツに大量の青壮年の労働力が逃げた。
これらの大量の良質な労働者の流入は西ドイツの奇跡の復興の原因の
1つとなった。しかし、逆に東ドイツには深刻な打撃を与えた。
これ以上の労働者の流出を止めるには壁を作るしかない、そうしないと
東ドイツの国は滅びてしまう
そう考えて東ドイツ政府は壁を作ったのであった。

  ☆    ☆     ☆

私もベルリン・ツォー駅から高架電車に乗りフリードリヒ・シュトラーセに
行ったことがある。

そこで見たものは、古くて修理部品も満足に手に入らないような
壊れかかったタクシーであり、公衆トイレが駅のものは壊れていて、
駅前に移動式簡易トイレがあるのを探したものだった。

駅前にはパリのシャンゼリゼにあるようにパラソルの下にテーブルと
椅子が並べられ、そこで安いビールを飲むことができた。
 ビールの味はさすがおいしかった。
しかし、回りのドイツ人は誰も私には話しかけてくれなかった。
たった一人私に話しかけてくれたのは、よっぱらいのおじさんで
そのおじさんも駅の地下でトイレを探して、そこが修理中で使えず
私の後を追うようにして駅の近くで簡易イトレを見つけて
「やっと見つけたな」と一言声をかけてくれたのだった。

私が東ベルリンを訪れたのは1982年のことで、
デパートを見てもほとんど商品がなく(今から10年くらい前の
中国でも、あれ以上の商品がデパートに並んでいたのに)、
静かな古ぼけた町並みを見てきたのだった。
その昔、若き日の森鴎外が歩いたであろうウンターデンリンデンの
街路の行き着く所にブランデンブルク門があり、そこに壁が
立ちはだかっていた。
この門の写真をとることは監視の警察も問題なく許可してくれた。

それから10年後に
ベルリンの壁が崩壊されてから再びフリードリヒ・シュトラーセの
駅に降りた私は少しずつ再建されている町並みを見てあるいた。
東ベルリンは建設ラッシュ。
もちろん壁のないブランデンブルク門を通り抜けたときの感激は
今も覚えている。
あれは1991年1月のこと。湾岸戦争の半月前。

東西ドイツが歴然と存在し、ドイツ統一は夢のまた夢という時代。
この本が出版されたのは、ちょうどドイツ統一の夜明け前直前のころ。
(友よ 夜明け前の...)

西ベルリンと東ベルリンの驚くべき落差は、おびただしい亡命者
だけでなく、たえまない東側市民の要求不満となって党をゆさぶった。
そのあらわれが、ソ連による西ベルリン封鎖(1948)であり、
東ベルリンの暴動(1953)であり、最後のとどめが
ベルリンの壁構築(1961)だったのである。

1945年5月ドイツが降伏した後、米英ソ仏の首脳は
7月17日からベルリン郊外のポツダムで会談し戦後処理を取り決めた。
このポツダム協定によってドイツは4地区に分けられ、東部をソ連、
西北部を英国、西部をフランス、西南部を米国が分担し、
ベルリンは4カ国が共同で占領した。

ところがイギリスが「英軍の駐留経費のみならず、占領地区ドイツ人の
食料輸入のためにも年間8千万ポンドという巨額な負担をしいられ
ている」ため、ただでさえ経済的に疲幣している英国としては、
これ以上の負担はたえきれない。ポツダム協定の示すとおり、
各占領地区を合併してドイツによる経済自立の体制をつくろう
と提案した。

これを受けて米国はドイツの経済統合を提案したが、フランスが抵抗した。
フランスは統一ドイツの復活を阻止したかったのである。長年にわたる
ドイツとの戦争での敗戦に懲りて、フランスはドイツが分割されたままの
弱いドイツの状態を望んでいた。

(現在フランスはドイツと一緒にECをつくって、ヨーロッパ合衆国を
つくり、米国に対抗しようと考えるようになったが、
ここまでくるのに大変時間がかかったようである)

ソ連もフランスの反対を理由に米提案を拒否してしまった。

そこで米英両国は仏ソを置きざりにして、1947年初頭から
両占領地区だけの経済統合にふみきり、商業制限の緩和、資源の
共同利用、貿易の共同管理をはじめた。

「これは全ドイツ経済統合の第一歩だ」と米英両国は宣言したものの
実際はドイツ分裂の第一歩になってしまった。

ソ連もまた自分の占領地区つまり東独を着々と共産化して、分裂への
既成事実を作っていった。
ソ連も統一ドイツが自国に驚異的存在になることを恐れたのである。

そして
1948年6月、西側三カ国が通貨改革を決定して、「西ドイツ・マルク」
を創設し、3日後にソ連も「東ドイツ・マルク」をつくり、通貨の面で
東西ドイツが完全に分裂してしまった。

交通自由な東西ドイツ・ベルリンで二つの通貨が流出した場合、
優勢な経済を背景とする西マルクが東を圧して、東独経済が混迷に
おちいるのを避けるため、ソ連は通貨改革と同時に、ベルリンと
西独の間のすべての鉄道を閉鎖、西ベルリンへの電力供給を止め、
この結果東独から西ベルリンへの陸上による郵便連絡、物資輸送
が不能になった。「ベルリン封鎖」が始まったのである。

西ベルリンは文字通り「陸の孤島」になった。220万人のベルリン市民
は飢えと凍えにさらされる。トルーマン米大統領は、残された
唯一のルート「空」を通じて市民を救済するべく大型輸送機を
ヨーロッパに送り、米国を中心とする西側三国による大空輸作戦
「ルフトブリュッケ 空のかけ橋」が始まり、1年間続けられた。
 延べ飛行回数27万7728便。輸送物資211万235トン。

  ☆    ☆     ☆

1948.4  ソ連、ベルリンの陸上輸送の規制を強化する。
1948.5  イスラエルがユダヤ国家の成立を宣言。
        アラブ連盟諸国、イスラエル攻撃を開始(第一次中東戦争)。
1948.6  ベルリン封鎖。西側諸国空中輸送を開始。
1948.8  大韓民国成立。
1948.9  朝鮮民主主義人民共和国成立。
1949.1  東ヨーロッパ経済相互援助会議(COMECON)成立。
1949.4  北大西洋条約機構(NATO)成立。
1949.5  ドイツ連邦共和国成立。
1949.10 中華人民共和国成立。
        ドイツ民主共和国成立。
1949.12 インドネシア連邦共和国成立。
1950.2  中ソ友好同盟相互援助条約調印。
1950.6  朝鮮戦争勃発。
1961.8  ベルリンの壁構築。
1962.10 キューバ危機。
1963    ケネディ大統領のベルリン演説。
1989.11 ベルリンの壁開放。(1989.11.9)

 

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