基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第27巻第1号−第12号(昭和51年5月−昭和52年4月)

  トーマス・マン
          小塩 節

トーマス・マン Thomas Mann は1875年6月6日に,北ドイツのバルト海に近い
小さな河港リューベックに生まれました。小さいとはいっても,ここは中世以来,
北欧貿易で栄えた富裕なハンザ同盟の中心的な町で,君主というものをいただいた
ことのない,帝国直属の自由都市でした。市民たちが自分たちで町をつくり,
自治の権利と責任を負った都市です。市民たちは勤勉でした。 

トーマス・マンの文学に重要な位置を占める「市民」というものの意味は,
はかりしれぬほど大きいものです。日本にはごく一時期の堺の町を除いて,
ついぞ市民の自治による都市というものが無かったし,今も皆無ですから,
ちょっと想像がつきません。

マンと同じように,ドイツ最大の詩人ゲーテも,自由な市民の町フランクフルト
に生まれたのも,偶然ではありません。

リューベックは戦災でやられましたが,今はむろん昔のままに美しく再建されて
います。この町の豊かな名門の市民の家に,トーマス・マンは市参事会員の要職
にあった父の次男として生まれました。お母さんはポルトガル系ブラジル人で、
芸術を愛し、音楽にひいでていました。

父親から北ドイツ的勤勉さと人生への真剣さを、そして母親から芸術的素質を
受けついだわけで、それは後に社会主義作家として大をなした兄ハインリヒにも
同じことが言えます。

なお,最近いろんな本に,トーマス・マンはユダヤ人だったのでナチに迫害されて
亡命した,と書いてあるのですが,間違いで,彼の家系にはユダヤの血は入って
いません。後でふれるマンの奥さん Katia カチア夫人の父親はユダヤ人でした。
だからマン夫人は半分ユダヤ系だった,というだけのことです。 

さて,マン兄弟の父親は早く死に,長い伝統をもつマン家の穀物商会は解散に
なります。 トーマス・マンが17歳のときでした。兄弟とも芸術家志望で,
商会をつがなかったのです。

堅実な市民の家が代を重ねていくうちに生命力を失い,それにつれて逆に文化的
センスが洗練されていって、高い梢の上に芸術的な花を咲かせる。こういう自分の
家の数代の歴史をトーマス・マンは大作「ブッデンブローク家の人びと 
ある一家の没落」に刻みあげ、26歳で作家としての不動の地位を築きます。

その長大な小説と、数年後に出たリリカルで美しい小説『トニオ・クレーガー』とは,
ヨーロッパ各国の文学に深い影響を与え,日木でも芥川竜之介,三島由紀夫や辻邦生,
それに『トニオ・クレーガー』を愛してやまずに自ら北杜夫と名のる斎藤宗吉の
『楡家の人びと』や『木精』にも,圧倒的な影響を与えています。

さて1905年,ミュンヒェン大学の有名な数学のプリングスハイム教授の娘カチアと
結婚。教授は,文士などという「市民的でなく」将来がどうなるかわからぬものに
娘をやれぬ,と反対しましたが,カチアの母親と双生児のお兄さんのとりなしで
ゴール・イン。

彼女は実によき妻として栄光のときも苦難のときも夫を励まし,終生愛と誠実を
もって支えました。今93歳ですがスイスに健在で,昨年夏わたしも会ってきました。
「こんどはいつ遊びに来るの」というお手紙が昨日も届いたところです。

なお,トーマス・マンの名は1904年にはじめて日本に紹介され,森鴎外も紹介に
カを尽しました。諸大作は戦後、望月市恵氏による堅牢な名訳がなされております。

 1912年,中編『ヴェニスに死す』を発表。
 この年に書きはじめて,1924年に完成したのが『魔の山』。
 1929年,54歳でノーベル文学賞を受けます。
 1933年,ヒトラーが首相となり,ナチによる第3帝国がはじまった年、
国外ヘワーグナー50年祭の講演に出国したまま亡命。つらい時期がはじまります。
厳重な警戒下にあったミュンヒェンの自宅に,娘エーリカがしのびこんで,書きかけ
の長編『ヨセフとその兄弟』の原稿をとり出してきたりしました。

アメリカのルーズベルト大統領の親しいすすめでアメリカに亡命し,市民権を
とります。死んだときもマンは国籍はアメリカ人でした。ただ、終生美しい
母国語ドイツ語を愛し,ドイツ語で著作したがゆえに,ドイツの作家とされるのも
当然でしょう。

第2次大戦中,定期的なドイツ向け反ナチ放送や文書をあらわし,亡命文学者の
救援活動をしながら堅忍不抜の勤勉さで,『ヨセフとその兄弟』を書き続け,
実に愉快な長編『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』,同じく長編
『ワイマルのロッテ』を書きました。さらに現代芸術の非人間化とドイツの運命
を描く、深刻な小説『ファウスト博士』を執筆し、戦後完成しました。

1955年8月12日、80歳で、スイスのツューリヒでなくなり、
郊外のキルヒベルク村のプロテスタント教会の墓地に埋葬されました。彼は
現代ドイツ文学の最大の作家であり、これからもずっと読み続けられていくことでしょう。
     (2月号)

             

 

 

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