基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第26巻第1号−第12号(昭和50年5月−昭和51年4月)

ベートーヴェンと英雄
             野田保之

ベートーヴェンの作曲したあの不滅の9
曲といわれる第1から第9までのシンフォ
ニーの中で、第3交響曲が「英雄」という
名で呼ばれているのは皆さんもよくご存知
のことと思います。いかにもベートーヴェ
ンらしい豪壮きわまりない、スケールの大
きな交響曲として有名ですが、さらにこの
曲がわたしたちの念頭を離れないのは、そ
の「英雄」という呼び名にまつわるエピソ
ードがあるからでしょう。そして、そのエ
ピソードのそもそもの発端の主が、これま
た有名な、かのナポレオン・ボナパルト
(1769―1821)だったからです。1789年の
フランス革命のあとに、一介の砲兵士官に
すぎなかったナポレオンは、たちまち頭角
をあらわし、1796年にはもうイタリア遠征
軍司令官に任ぜられ、オーストリア軍、イ
タリア軍を撃破して輝かしい戦勝をおさ
め、さらに2年後の1798年には、大軍を率
いてエジプト遠征にまでのりだしたのでし
た。この華々しいナポレオンの台頭ぶりが
当時全ヨーロッパの注目を集めたのは当然
のことです。ベートーヴェンは1770年12月
の生まれですから、自分とまったく同世代
のこの英雄の活躍に深い関心をよせずには
いられませんでした。たまたま1798年2月
から4月までヴィーンに駐在していたフラ
ンンス大使ベルナドット将軍が、大の音楽好
きでしたので、ベートーヴェンを高く評価
し、そのおつき合いの中で、英雄ナポレオ
ンの姿がべートーヴェンに伝えられたので
した。それで彼のナポレオンに対する関心
がいやがうえにも高められたのです。ナポ
レオンは彼にとって百戦百勝の英雄だった
ばかりではなく、フランス革命が、自ら崩壊
する危機にさらされたとき、その偉大な革
命の思想を救った救世主でもありました。
ナポレオンこそ、奴隷にされていた民衆に
その当然の権利を返し、自由の旗を打ち立
て、すべての国民を一つの同胞にまとめ、
永遠の平和という人類の夢をこの世界に実
現してくれる英雄だとベートーヴェンは信
じておりました。彼はナポレオン・ボナパ
ルトの中に、人類に幸福をもたらす人、文
化をもたらす指導者の姿を見出したのでし
た。平素からプラトンの「国家」を愛読し
ていたベートーヴェンが、時代の英雄ナポ
レオンに献呈する曲を作曲しようと思い立
ったとしても不思議ではありません。

そして1804年の春、第3交響曲は完成し
ました。ところがナポレオンに献呈しよう
として書かれたこの曲の写しが、フランス
大使館を通じてパリに送られようとしてい
たその矢先に、当のナポレオンが皇帝にな
ったという二ュースがヴィーンに伝えられ
たのです。それを知ったベートーヴェンは
怒りのあまりその写しの表紙をやぶいてく
しゃくしゃにまるめ、床に投げつけたので
Luigi van Beethoven   した。表紙には
   Bounaparte      左のように書か
             れてありまし
た。ベートーヴェンは、「あれもやっぱり
ただの人間にすぎなかったのか。あの男は
すべての人間の権利を踏みにじり、自分自
身の虚栄と野心のためにのみ生きるであろ
う。あの男は自分自身をすべてのほかの人
間の上に高めて、やがて暴君になるだろ
う。こんな男におれのシンフォニーを捧げ
ようとしていたのか」と声をふるわせて叫
びました。そして同時にベートーヴェンの
頭の中を熱い思いがぐるぐるとかけめぐっ
たのです。「人間は生まれたときは奴隷だ
った。神の祝福を受けた主人の使用入とし
て育った。血の汗を流して主人のために働
かなければならなかった。大砲の餌食とし
て海の向うに送られた。ご主人様がなおい
っそう快適な生活を送れるようにするため
だ。その時、ラインの向うで革命が起こっ
た。民衆の目覚め、人間としての権利を考
えるようになった。しかし人間の中にある
獣性もいっしょに目をさました。それから
ポナパルトがやって来た。彼は獣を抑えつ
け、人間の中の偉大な気高い心を呼びさま
した。少なくともおれにはそう思えた。民
衆の中から生まれた男、人間の奴隷化に終
止符を打ち、18世紀に終止符を打ち、生まれ
ながらの特権に終止符を打つ、新しい時代
の権化、人間が善意をもつかぎり、すべて
の人間を平等にする男。彼は黄金の時代を
招来することができたはずなのだ。シラー
が喜びによせた讃歌の中で美事に描いてい
るように<すべての人間は兄弟になる>の
だ。ところがポナパルトめ、奴は仮面をぬ
ぎすてた。利己的な独裁者。これで人類は
ふたたび 100 年前の昔に投げ返されてしま
った。ああ人間の心は何と弱いのだろう。」
悪夢にうなされベートーヴェンはその日ま
んじりともせず一夜を明かしました。

あとでベートーヴェンは楽譜の表紙を書
き変えて、イタリア語で、"Sinfonia Eroica"
「英雄交響曲」と記し、さらにその下の方
に、「一人の偉大な人間の思い出のために」
と書きそえました。それからさらに1821
年、ナポレオンがセント・ヘレナ島で死ん
だとの報に接したべートーヴェンは、「自
分はすでに17年前にこの悲劇を音楽で予言
しておいた」と語ったと伝えられていま
す。第2楽章の葬送行進曲をさしているの
だと思いますが、この部分は1801年3月に
エジプトで戦死したイギリスの将軍のため
に書かれたという説もあります。
    (3月号)   



DDRへの旅(1)
      入国手続
             坂本明美

(DDR 旅行は簡単) 東ドイツへの旅行は一般に
むずかしいものと信じられています。西ドイツ
に旅した日本人は1974年だけでも40万泊に達す
るのに、東ドイツ(ドイツ民主共和国、 
Deutsche Demokratische Republik, DDR)にも
立寄ってみようとした人はほとんどありません。
西ドイツでは旅券だけで3カ月間は自由に動き
廻れるのに、DDR 旅行の際は少なくとも観光ビザ
が必要です。しかしこのビザは日本であらかじめ
取っていなくても国境で簡単に入手できます。
1975年の暮、二人の日本人が自動車で DDR 1泊
2日旅した時の様子を今月号と来月号とで御紹介
しましょう。

(DDR に自動車で)分割された国。ベルリンの壁。
北はバルト海から南はチェコと東西ドイツ3国が
境を接するテューリンゲンの森まで幅10km に及ぶ
鉄条網と地雷原の無人地帯。そう聞くだけで東西
トイツの国境線には冷たく険悪な空気が漂って
いるのが判ります。西ドイツとフランス、
ベルギー、オランダ、スイスなどの国境を経験
した後、この国境に立つと両国の置かれている
複雑な関係は政治にあまり関心のない人にも
ひしひしと感じられるでしょう。

西ドイツ側のコントロールは簡単です。パスポート
の表紙を見せるだけ。車を東ドイツ側に数百メートル
進めると最初の遮断機。パスポートを預けたまま何分
も駐車を命じられます。おそらくこの間に旅行者が
DDR 入国にふさわしい人間かどうかをチェックして
いるのでしょう。私達が待っている間にも、西ドイツ
人で DDR の友人や親類を訪問する人々の車が何台も
通過します。彼等はあらかじめビザを取っていた人人。
東ドイツの市民は60歳以上になって年金生活者になら
なければ西ドイツ訪問は許されませんから、訪問は
西から東に一方的に行われるだけです。

私の同行者の日本国旅券は1973年日本と DDR の国交
樹立以前に発行された物で、東ドイツへの入国禁止
をはっきりうってあるにもかかわらず、いよいよ
go ! サインが出ました。但し次の遮断機まで。

(唯一の条件)日本人にとって DDR 旅行は簡単です
が毎晩の宿泊場所を旅行開行開始前に決めておく
こと、また必ずそこに泊まることが義務付けられて
います。そのためにビザを国境で申請する場合、
まずDDR-Reisebuero という国営旅行社でホテルの
予約をしなければなりません。

(DDR の宿泊施設)東ドイツに友人、知人のない人
はホテルに泊まりますが、外国人用ホテル 
Interhotel があるのは DDR の26都市に限られます。
Sassnitz, Stralsund, Greifswald, Rostock, 
Schwerin, Neubrandenburg, Neustrelitz, Berlin, 
Potsdam, Luebben/Spreewald, Magdeburg, 
Wittenberg, Wernigerode/Harz, Eisleben, Halle,
Leipzig, Meissen, Dresden, Bad Schandau,
Muehlhausen, Erfurt, Weimar, Gera, Eisenach,
Karl-Marx-Stadt, のどこかにベットを見つけ
なければなりません。直接ホテルのレセプション
に行っても泊めてもらえず DDR-Reisebuero に
行って相談するよう勧告されます。

Interhotel が外国人専用で割高なことも DDR 旅行
をむずかしくしている一因です。私達は2人部屋で
1泊131.6マルク払いました。131.6マルクは
西ドイツマルクで支払いを要求されます。これは
東のマルクは外国で交換できないことを前提に
しているからです。西ドイツでは西ドイツマルク
と東ドイツマルクの交換率が1対3.5 乃至1対4と
見積られており、これが東ドイツの公式レート
では1対1になります。そこで、DDR の旅行者の
中には西ドイツで有利に交換した東マルクを
持ち込む人が絶えません。このため国境での検査
は厳重をきわめ身体検査で丸裸にされることも
まれではありません。

2人で131.6 西ドイツマルク支払って一夜の宿
を Leipzig に確保すると、DDR-Reisebuero から
2人に36東マルクのお返しがあります。これは
食事代です。

(Visa-und trassengebuehren)観光ビザは1人
15西ドイツマルク。道路使用料として車1台に
つき30西ドイツマルク。この料金で片道 300km 
まで走れます。旅行を始める前に、どんどん
お金をとられますので DDR 旅行はとてつもなく
お金がかかるような気がします。

(厳しい税関検査)自動車のボンネット、
トランク、座席の下などくまなく検査され
ますが、これは DDR 市民には見せたくない
出版物を捜すため。私達もたまたま読みかけ
で持っていた西ドイツの週刊誌とスパイ小説
を没収されました。トランジスターラジオや
ミニ計算器も DDR で売れば高い値がつくと
あって、持ち込む人が多いためか、手持ちの
外貨と共に用紙に書き込み、DDR から再び
持ち出すよう義務付けられます。面倒な手続
はこれで終わり。45分間かかりましたが、これで
やっと DDR に旅ができます。いかめしい感じ
の男女の税関員たちも、笑顔で "Gute Reise !"
"Schoenen Aufenthalt in unserer Republik !"
と言って送り出してくれました。
    (3月号)   

             

 

 

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