基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第26巻第1号−第12号(昭和50年5月−昭和51年4月)

それぞれの道
                   真鍋良一

さてまた1年たちました。1年ずーっと辛抱して頑張って来られた方のドイツ語はどの程度
でしょう。

泳ぎにたとえば、背の立つところで、ぼちゃぼちゃ泳いだり、水浴したりする程度かも
知れません。ま、一応は泳げる、しかし深いところへはまだ1人で泳いで行くのは無理と
いった程度でしょう。しかし、その程度はその程度でまた楽しみがあるのです。別に深い
所で泳ぐこともない、浅い所で水遊びができることで十分満足だ、という人もいると思い
ます。ドイツ語を専門にしない限り、その程度の学力を維持しながら一生をすごす人も沢山
あると思います。

この程度のドイツ語が基礎にあるため、のちに会社などに入ってからも、必要に応じて、
少し勉強し、ほかのことはともかく、自分の所管の商業手紙や、カタログぐらいはドイツ語
でよめるようになり、結構仕事に役立てている人も沢山いるようです。

そういう人の中には、ドイツ語ドイツ文学専攻の先生がたが知らない、いわゆる専門語、
機械の名前、部品の名称など、専門語辞典にしかでていない単語を実によく知っている人
もよくおります。

これも語学のひとつの学び方の方向なのです。また語学の面白いところなのです。私の
ように50年近くもドイツ語をやっていながら、ドイツ語を1年しかやっていない人の知って
いる単語を知らない、ということもあり得るのです。例えば医学用語、病気の名前、人体
各部の骨や神経や筋肉や何やかやの名称、とても、専門語にいたるまで、何もかもという
わけにはまいりません。尤もこれは日本語についてもいえることですが。

今後、ドイツ語を専門にされる方もあるでしょうが、他の方面へ行かれる方はもっと多い
と思います。それぞれの道で、それぞれの方法で、ドイツ語の勉強を少しずつでも、楽しみ
ながらやってゆかれることです。やめてしまわなければ、それぞれの楽しさは残るはずです
し、また思わぬところで役に立ったりします。
    (4月号)   



汽笛一声ニュルンベルクを
                   信岡資生

1833年11月18日、ニュルンベルク市議会
ホールでは、207名の株主が集まって、新
しい「鉄道」会社の創立をはかっていまし
た。かねてから鉄道敷設の計画はあったの
ですが、いまようやくその機が熟し、実現
に向かって具体的な着手がなされようとい
うのです。これでいよいよドイツでも初め
ての蒸気機関車が、しかも当市で自分たち
の手で走ることになるのですから、異常な
興奮と期待感が会議場を支配していたのも
むりからぬことです。

すでに8年前の1825年に、イギリスで
は馬力に代わる世界最初の蒸気機関車が走
っていたのでした。それまでは、木製のレ
ールの上を、馬の引く車両が動いていまし
た。運転士は御者で、彼は燃料としての乾
草の束を持って馬の前を歩かねばなりませ
んでした。こうした馬力軌道は、主として
鉱山で石炭を運び出すのに利用され、バイ
エルンでも、1814年に鉱山監督局のある
上級事務官が Pferdebahn[プフェーアデバー
ン]の敷設を企画したことがありましたが、
実現には至りませんでした。しかし、ジョ
ージ・スティーブンソン(George Stephen-
son)の製作した蒸気機関車「ロケット」号
は、リヴァプール(Liverpool)とマンチェ
スター(Manchester)の間を平均時速26マ
イルで走り、馬力に代わる蒸気機関車の威
力を示していました。

ときのバイエルン王ルートヴィヒ1世
(Ludwig I. 1786-1868)は、ここに誕生
した"Ludwigs-Eisenbahn-Gesellschaft"
[ルートヴィヒス・アイゼンバーン・ゲゼルシャ
フト]の定款を承認し、この会社に30年間
の特権を与えました。また、ニュルンベル
ク市付近の交通量が調査された結果、1日
平均1700件の歩行者・車馬で、往来最高と
されたフュルト(Fuerth)との間 6kmにわ
たってレールが敷かれることに決められま
した。このレールの敷設に9か月を要しま
した。一方、上記のイギリスでの成功の評
判に基づいて、ニューキャッスル(New-
castle)のスティーブンソンのもとに、蒸気
機関車(Dampflokomotive)[ダンプフ・ロコ
モティーヴェ]1両と、車両9両が800ポン
ドスターリングで発注されました。

開通式は1835年8月25日の予定でし
た。といいますのも、この日が国王の誕生
日であったからです。しかし、スティーブ
ンソン工場での製造が予定より遅れ、重さ
170ツェントナーの機体が19の部分に解体
ざれてニュルンベルクに到着したのは、11
月20日のことでした。そこで12月7日の午
前9時を期して、いよいよ鉄道開通の運び
となりました。

当日は全市が沸き返るような騒ぎでし
た。選ばれた少数の招待客が、胸をおどら
せながら3両の客車に乗り込みました。数
日前の試運転で、鳥のように速く走ったと
いうので、機関車は Adler[アードラー]「ワ
シ」号と命名されていました。運転士は、
操縦の仕方を教えるためにイギリスから機
関車といっしょにやってきたウィルソン
(Wilson)という英人でした。ウィルソン
は、ほんの数日ニュルンベルクに滞在する
つもりでやってきたのですが、このあと27
年間もこの町にとどまることになろうと
は、このときは夢にも思わなかったにちが
いありません。とにかく大歓声の中に
Adler号は発車、Fuerth までの 6km を
9分で走りました。

当日の模様を、市の新聞は次のように報
道しました。「沿道ニハ数知レヌホド多数
ノ群衆出デテ走リ過ギル車輌ニ万雷ノ歓声
ヲ送リタリ。マコトニ疾駆スル列車ノ壮観
自ラ乗心地ヲ味フヨリモ大イナル楽ミトイ
フベキカ。噴煙ヲ上ゲ轟音ヲ鳴リ響カセル
蒸気ハスバラシキ効果ヲ発揮セリ。コノ怪
物ノ接近ニ街路ノ馬ドモミナ恐レオノノキ
タリ。婦女子ハ泣キ叫ビ、大人ノ中ニモ身
体ノフルヘ止マラヌ者アリキ。未ダ空想力
ヲ失シズニイル者タレカコノ摩訶不思議ナ
ル現象ヲ目撃シテ驚カズ心ノ平静ヲ保チ得
ンヤ...」

時速30マイルそこそこのスピードでも、
当時としては大へんな驚異であって、医者
の中には、この速度は乗客の頭脳に直接異
常をもたらすばかりか、見物人にも影響を
及ぼすであろうから、軌道は両側を高い板
塀で囲わねばならないと、大まじめに主張
する人がいたくらいです。一方ではまた、
鉄道は牛の草を食い、鶏の産卵を妨げ、機
関車の吐き出す煙で汚れる空気が鳥を殺す
ことになる。家々は機関車の煙害を受け、
火で焼け落ちるであろうなどと、すでに鉄
道公害を予言する人たちもいました。彼ら
にまじって、馬車を製造したり、馬車によ
る輸送を生業とする人たちも、鉄道に反対
しました。

開業当初は、何しろ機関車は1両しかあ
りませんので、馬力列車と汽車とが並用さ
れました。ニュルンベルクとフュルト間
は、15分で走ると定められたのですが、馬
力列車では25分を要しました。

それでも人気は上々で、Ludwigs-Eisen-
bahn-Gesellschaftの初年度の事業報告に
よると、2364回の汽車と6101回の馬力列
車が走り、45万人の乗客がこれを利用しま
した。会社は儲かって、株主に20パーセ
ントの配当を出したということです。

日本最初の鉄道開通は、37年後の明治5
年(1872)のことでした(新橋−横浜間)。
    (4月号)   



DDRへの旅(2)
      DDRの生活
             坂本明美

(本当に自由に動き回れる日本人)
私達は Frankfurt の北東 130km の地点にある
国境から DDR に入り、Leipzig で1泊し、
翌日の24時迄に DDR を出る許可をもらい
ましたが、滞在中は本当に自由に車を走らせ、
停車し、見たい物を見、食べたい物を食べ
きした。これは西ドイツ人をひどくうらやまし
がらせる結果になりました。西ドイツ人で
東ドイツを観光旅行しようという酔狂な人は
まずありません。前号でご紹介した通り西
ドイツ人には高すぎるからです。そこで DDR
に旅する西ドイツ人は友人、知人を訪問する人
がほとんど。彼らは目的地まで Autobahn が
ある所では必ずそれを利用しなければならず、
しかも途中むやみにスピードを出したり、停車
したりすれば、たちまち交通警官から罰金を
とられたり、スパイ行為やその他の不正行為
をやったのではないかと疑われます。そこで
脇目もふらずガムシャラに車を走らせるだけ。
日本人観光客のような自由がうらやましい
のは当然です。

(建物と道路)車で西ドイツから東ドイツに
入ると、全体の雰囲気が暗くなることは否定
できません。建物が陰気で道路は泥まみれ。
家々の外壁を塗り直したり、屋根を同じ色の
かわらでふいたり、幹線道路以外の道まで
完全舗装したりする経済的な余裕はないので
しょう。交通標識も西トイツのとほとんど同じ
ですが、数がずっと少なくなります。

(Intershop と Ginex)数年前まで DDR 市民
を西ドイツ人と区別するのは簡単でした。両者の
服装がひどく違っていたからです。生地、仕立、
染料など DDR 製品は程度が落ち、若者の制服、
ブルージーンズなど普通には DDR 市民の手に
入らないとされていました。ところが今や服装
で両国のドイツ人を見分けることはむずかしく
なりました。DDR の大都市には以前から外国人
旅行者のために西側諸国製の煙草、ウイスキー、
化粧品を売る Intershop という店がありまし
たが、ここ1,2年で DDR 市民も大手を振って
買い物できるようになり、商品も種類やサイズ
に不平さえ言わなければ、洗剤や衣服から
装飾品迄、各種の西側製品が手に入ります。
もちろん Intershop の前に列を作っている
DDR 市民はいずれも西ドイツマルクや US ドル
を財布に暖めています。Intershop では東ドイツ
マルクは通用しません。

DDR で西側製品をさかんに見かけるもうひとつの
理由は Ginex という通信販売制度にあります。
西ドイツに住んでいる人が DDR の知人、友人に
物品のプレゼントをする際、Genex 社のカタログ
から選んで西ドイツマルクを払い込むと配達され
るシステムです。DDR 製ですが自動車もこの制度
を利用すると、東ドイツマルクなら百数十万円
もする小型自動車が西ドイツマルクならその半分
から三分の一の価格で、3か月も待てば配達され
ます。普通なら完全にお金を払い込んでも7年
から8年も待たなければ自家用車は手に入りま
せん。もちろん西ドイツ市民が DDR の親類や
友人達にプレゼントとして持ち込む西側の製品の
数量も決して馬鹿にはできないでしょう。

(DDR 市民とのコンタクト)教師や兵士を含めて
一般に DDR の公務員とは普通の会話すら困難です
が、これは彼等が国家機密の保持者とみなされ、
日本人を含め西側の資本主義国の人間との付き合い
でスパイ行為を働く危険があるからです。そこで
公務員達は出世のさまたげになるような付き合い
を避けようとします。

しかし社会主義統一党の党員でもなく、公務員でも
ない人は人なつっこく、好奇心にあふれています。
日本人を見ることがまれな地方に行きますと、素朴
な好奇心に満ちた視線をどこでも感じます。政治の
話題もタブーではなく、西側諸国とまるで同じよう
に政府を批判する人々に出会うのもまれではあり
ません。

こうしてもうひとつのドイツ、DDR は確実に我々
日本人にも身近な存在になる可能性を持っています。
確かに西ドイツほど楽に旅ができず、お金も毎日
使用する最低額が決められているなど、決して
経済的な旅ができる国ではありませんが、もしドイ
ツ文化に対する強い憧れがあって、どうしても
 Weimar の町や、Leipzig、Dresden、Potsdam
を見たいという人がいて西ドイツまで行くことが
あれば、一度は DDR に入って見るべきでしょう。
自動車がなければ、東ベルリンからは2泊3日
から6泊7日まで各種のパッケージバス旅行が企画
されていますので利用できます。自分で車を運転
するよりはるかに経済的(6泊7日で 46,500円)
に東ドイツの名所が見学できます。鉄道を利用する
ことも可能です。

東ドイツはドイツに興味を持つ人々に西ドイツ
とは全く異なった社会体制の下で同じドイツ語、
ドイツ人がどのように違った発達をしているか、
つぶさに見学できるまたとないチャンスを与え
てくれるでしょう。経済的にも高い旅行に慣ら
されている日本人にはなんでもありません。
一流ホテルで1泊6,000円、600km の道路使用料
3,600円は日本の事情と比べて安いと言わざるを
得ないでしょう。
    (4月号)   

 

             

 

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