ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。
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勉強の話 真鍋良一 昨年テレビで活躍した柳沢吉保に仕えていた儒者荻生徂来(1666−1728)のところへ、 大晦日にある人が訪ねて来て、およろしかったら、年が明けてから先生のご指導をうけて 勉強したい、と頼んだところ、徂来が「本当に学問をする気があるのか」と訊ね、「ある」 という答に応じて、そういう覚悟があるのなら、何も来年までまつことはない、今すぐ 始めようと言って、早速講義をはじめた、という話を中学の時でしたか、漢文の教科書か なにかで読んだ憶えがあります。 こんな話を書くのは、これからあまりお正月らしくのんびりとしない、勉強の話をしよう と思ったからです。やる気があるなら、元旦から勉強したっていいはずだと言うわけです。 さて ― 私の友人のIさんは、ある大会社につとめておられ、今はもう定年で退職されましたが、 英語の達人で、よく通訳されるのを、私も同席して拝聴したことがあります。彼は20歳まで ハワイで育った、いわば二世ですから、英語のうまいのは当然といえば当然ですが、自分 の英語についてこんなことを話してくれたことがあります。「大概の人が、私の英語は 母国語のようなものだから、何の苦労もなく通訳すると思っているようだが、それは とんでもない思い違いだ。私の20歳までの英語はハワイで憶え身についた英語だが、20歳 以後の英語は日本で勉強して覚えた英語なのだ。日本に来てから、生活の幅もひろがり、 仕事の範囲も広くなり、経験や知識が増すにつれて、20歳までの英語では不足になり、役に 立たなくなってきて、それをおぎなう英語はやはり辞書をひいたり、いろいろ勉強して 憶えたので、やっぱり英語はむずかしいと思っていますよ」と。よい言葉です。20歳まで の土台はあったが、その土台の上にさらに語学力を築き上げて行くのにはずい分苦労した、 というわけです。彼は非常な努力家でした。 もう1人の友人、割合若くして死んでしまったN君、この人は16歳頃までオーストラリアで 育ったのですが、やはり英語は上手でした。しかしこの人は、オーストラリア時代を生か して、さらに知識を増築する勉強はあまりしませんでした。日常会話は上手でしたが、 内容のあることを喋ったり、書いたり、あるいは通訳したりするとなると、かえって日本 でしっかり勉強した人の英語のほうが立派でした。 語学には、この辺でもうよいという限界もないし、条件さえよければ ― 現代の電波、 航空機などの発達で語学の勉強は、どれ程好条件に恵まれているか考えてごらんなさい ― 上手になるものでもなく、やはり常日頃の不断の努力が大切だというお話。 (1月号) ヘルダーリンとバート・ホンブルク 尾崎盛景 Frankfurt[フランクフルト]から北へ地下 鉄――といってもすぐ地上に出てしまうの ですが――に乗って30分ほど行ったところ に Bad Homburg[バート ホンブルク]とい う保養地があります。昔は Hessen-Hom- burg[ヘッセン ホンブルク]地方伯の居住地 で、今でもその瀟洒(しょうしゃ)な白亜の邸 宅が町の中心部の小高い丘の上に立ってい ます。白鳥の浮ぶ静かな池のほとりを通っ て裏門から出ますと、赤煉瓦の家並みが今 も昔の面影をとどめています。この町にか つて"Hyperion"[ヒュペーリオン]という小 説で有名な孤高の詩人Friedrich Hoelderlin [フリードリヒ ヘルダーリーン](1770―1843) が2年程住んでいたことがあります。どう して彼がここに住むようになったのか、そ んなところからお話をすすめてまいりまし ょう。 ヘルダーリンは1795年の暮近くにフラ ンクフルトの銀行家 Jakob Friedrich Gontard[ヤーコプ フリ―ドリヒ ゴンタルト] 家に家庭教師として住み込むことになりま す。教え子の長男 Henry[ヘンリー]にも満 足し、暖かい人々に取り囲まれて「幸福と いってもよい」生活を送っていました。し かし彼のほんとうの幸福といえば、それは ゴンタルト夫人 Susette[ズゼッテ]にあっ たのです。彼女は当時26歳で、すでに一男 三女の母親でした。天使のように美しく、 静かで、やさしく、優雅で気高く、喜びと憂 いを兼ねそなえたズゼッテは、ヘルダーリ ンが夢に描いた理想のギリシア女性そのも のでした。彼はズゼッテを「ヒュペーリオ ン」や数々の詩の中で Diotima[ディオティ ーマ]と呼び、永遠化しています。その憧 れは夫人にも通じない筈はありません。彼 女もまたヘルダーリンの中に心の友を見出 だしたのです。しかしこうした生活は当然 いつまでも続く筈はありませんでした。や がてヘルダーリンはゴンタルトと衝突し、 フランクフルトを立ち去ることになるので す。 1798年の秋のことでした。 そして移ったのがホンブルクなのです。 ズゼッテはヘルダーリンが去った後、今更 のように二人の愛の深さに気づきます。彼 女は激しい思慕の情を抑え切れず、ヘルダ ーリンに熱烈な愛の手紙をしたためるので す。二人は毎月第1木曜日に会う約束を取 り交しました。ホンブルクからフランクフ ルトまでは歩くと3時間かかります。10時 に会うためにヘルダーリンは朝早く家を出 なけれればなりません。しかし一度会うと、 それから一月、とても会わずにすますこと はできません。ズゼッテはまた数日後手紙 を書きます。「きょう3時15分、裏の戸口 から入り、いつものように階段を上って私 の部屋にいらっしゃってください、戸は開 けておきますから」。このような逢瀬と往 復書簡が1年半も続くのです。次の木曜日 までヘルダーリンは毎日のように山野をさ まよい歩き、あるときは森の木蔭に、ある ときは泉のほとりに、またあるときはバラ. の花咲く岩にもたれ、丘の上から遙かにフ ランクフルトの空をのぞむのでした。その うち人目をはばかり、逢瀬は垣根の間から 手紙を取り交す一瞬だけのものになってし まいます。それは喜びではなく、むしろ苦 しみでした。しかしその苦しみが二人をよ り深く結びつけるものとズゼッテには思え ました。「もしこの苦しみがなくなったら、 私はそれをどんなに憧れ求めることでしょ う」と彼女は言っています。ズゼッテの手 紙には、今月皆さんが学ばれている接続法、 しかも約束話法の文体がきわめて多く用い られています。現実の愛を引き裂かれた彼 女にとって「もしも、もしも」という願い は切なるものがあったのでしょう。 ズゼッテのこの激しい情熱をヘルダーリ ンはどのように受けとめたでしょうか。始 め彼はズゼッテの、索漠とした魂のない生 活の中にあって自分が彼女のためにいくら かの光明になり得たと思ったのでした。し かし現実は必ずしもそうではなかった。か えって彼女の平和をかき乱したのではなか ったか、という呵責(かしゃく)の念が彼をせめる のです。ヘルダーリンは1800年春、ホンブ ルクを去り Stuttgart[シュトゥットガルト] に赴くのですが、ズゼッテは1802年6月、子 供の病気がうつり、それがもとで若くして この世を去ってしまいます。それ以前にヘ ルダーリンは「ヒュペーリオン」の中でデ ィオティーマを死なせたことをズゼッテに 詫びていますが、それがそのまま現実にな うてしまったのです。「愛なくして生きるよ りも、愛の犠牲になりたい」と願ったズゼ ッテは、そうでなくても長く生きることの できない運命であったのかもしれません。 (1月号) モーツァルトの死 荒井秀直 ロシアの有名な作曲家リムスキー・コル サコフのオペラに「モーツァルトとサリエ リ」というのがあります。今日ではまった く上演されませんが、これはモーツァルト が当時彼のライバルだったイタリアの作曲 家サリエリに毒殺されたという俗説にもと ずくプーシキンの劇詩をオぺラにしたもの です。このモーツァルト毒殺説は、いまで はまったく事実無根であるとして問題にさ れませんが、彼が死んで100年以上もたっ た頃、相変らずドラマやオペラにとりあげ られていたのですから、18世紀の終り頃は かなり信じられていたと考えられます。そ れを裏づけるような証拠がいくつかありま すし、また面白半分にまことしやかなデマ をとばした人もあるようです。 モーツァルトの妻コンスタンツェは、夫 の死後デンマークの枢密顧問官ニッセンと 再婚しますが、彼はモーツァルトの伝記資 料を集め、『モーツァルト伝』をあらわし ました。この本の中につぎのような一節が あります。 ある美しい秋の一日、彼のうさばらしに と彼女は夫といっしょにプラーターヘ馬車 で出かけ、二人して静かにすわっでいたと き、彼は死のことを話し出し、『レクイエ ム』は自分のために作曲しているのだと言 った。そう言いながら彼は目に涙を浮かベ た。彼女が彼の不吉な考えを言わせまいと すると、彼は言った。「いやいや、ぼくは はっきりと感じているんだ。ぼくはもう長 くはない。きっとぼくに毒を盛った者がい る。どうしてもこの考えが頭にこびりつい てはなれないんだ」 コンスタンツェはほかの人にも同じよう なことを語っています。モーツァルトが、 誰かが危険な薬をまぜ合わせてぼくに飲ま せ、ぼくの死ぬ時を正確に計算しているか もしれないと語ったというのです。ここに はまだサリエリという名前は出てきません が、ベートーヴェンの会話帳には、 サリエリの具合がまたしてもとても悪 い。彼はまったく錯乱状態だ。彼はひどく うなされて、モーツァルトが死んだのはお れのせいだ、彼に毒を盛ったのはこのおれ だとうわごとを言っている。 というのがありますし、ベートーヴェン の甥のカールの会話帳にも サリエリがモーツァルトを殺したんだと いううわさはいまでもなおしきりだ とあります。たしかにサリエリは精神錯 乱のうちに死に、数々の犯罪を自分の仕業 と告白しましたが、その中に「モーツァル トの毒殺」は入っていなかったとの証言も あります。こんなうわさが広まったのも、 モーツァルトの病気が中毒の症状を呈して いたことに原因があるのかも知れません。 彼の死因については急性粟粒疹熱、水銀中 毒、腎炎、脳炎、結核とさまざまです。1791 年ウィーン市死亡者目録には「粟粒疹熱の ため死去」とありますが、その後いろいろ な人が彼の病気を次第次第に臨床的に復元 して、それぞれ異なった結論を出していま す。最近の研究では水銀中毒説と腎炎説が 有力のようです。モーツァルトは死の一週 間は腕と脚とがむくみのためにふくれあが り、ベットの中で寝返りが打てないほどで した。コンスタンツェの母や妹たちが、頭 からぬがないであお向けのまま着られる寝 間着を作ってやりました。1971年12月4 日、彼は作曲途中の『レクイエム』の「ラ クリモサ」の出だしの部分を義兄たちと一 緒にうたいました。彼はアルトのパートを 受け持ちました。わずか数小節、被が作曲 したのはそこまででした。夕方コンスタン ツェの妹ゾフィーが彼を見舞ったとき、彼 は「もう舌の上に死の味がしている」と告 げています。高い熱が彼を襲います。医者 をよびに使いの者が走りました。やっと見 つけた医者は劇場にいましたが、すぐにか けつけてはくれず、オペラが終ったらすぐ に行くという返事が帰ってきました。司祭 のところへも妹がかけつけました、しかし 司祭は最後の塗油に来るのを拒みました。 それはモーツァルト自身が彼らの立会いを 自らの口で求めなかったからでした。やっ とかけつけた医者はもう助かる見込みのな いことを弟子のジュスマイヤーにそっと告 げ、病人のもえるような額を冷やすように 命じました。この冷罨法のため彼はぞっと ふるえ上がり、すぐに意識を失ない、二度 と意識をとり戻すことはありませんでし た。ゾフィーの報告によれば、彼は臨終の ときでもまだ口で『レクイエム』のティン パニのまねをしようとしているようで、頬 をふくらませていたということです。1791 年12月5日午前1時すこし前に彼は息をひ きとりました。 ここまではきっと本当のことでしょう。 しかしこれからわけのわからぬことがいく つか続きます。まずその日はおそろしい嵐 だったということですが、ウィーン気象台 の記録によれば、当日はおだやかな天気だ ったようで、これは天才の死を劇的にする ために後世の人がつくり出した伝説といえ そうです。つぎに夜が明けぬうちに彼のデ スマスクが取られましたが、これがどこへ 持ち去られたのか、今もって行方がわかり ません。さらに、この日は一日中モーツァ ルトの死をいたむ大勢の人が哀悼の意を表 したといいますが、それが事実なら墓がど こかわからないなんてことはありますま い。墓地まで行ったのはなんと棺をかつい だかつぎ手2人だけでした。家族にも見守 られずに彼は墓地にねむったのです。しか しデスマスクもお墓もないというのは、考 えようによってはよいことなのかも知れま せん。モーツァルトと私たちを結びつける のはただ作品だけというのは、なにかとて も意義深いような気がしてくるからです。 (1月号)