ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。
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ブリュージュとブリュッヘ 有田 潤 ところは北ベルギー、北海Nordsee f の海岸から 15km ほどのところに ブリュージュ Bruges と呼ぶ小さな 都市があります。人口5万を少し越 す位のかわいらしい都市ですが、そ の瀟洒な美しさに比べうるものはヨ ーロッパの他の都市にもあまり多く はなさそうです。 中世以来のさまざ まな由緒ある建造物がみごとに保存 されているばかりでなく、今日民間 人が商店などを新築する場合ですら 北ヨーロッパ独特の伝続的な様式 Stil m を尊重しています。私がそこに感じとったのは まさに近代ヨーロッパ文化の基礎である市民精神 Buergersinn m そのものでした。ヨーロ ッパには少なくとも2千年以上の都市の歴史があり、また真の意味における市民 Buerger m も今なお健在です。 ベルギー Belgien n という国は首都ブリュッセル Bruessel n のあたりをほぼ東西に走 る一線で言語上二分されます。 この境界線の南側はフランス語域、北側ではフラマン語 Flaemisch[フレーミッシュ]n が話されています。(以上の2言語が公用語で、このほかに小さ なドイツ語地域があります)。ひとつの国が言語上二分され、それぞれの住民の反目が政治 的紛争にまで発展しかねないといった状況は日本では想像できません。 このフラマン語なる言語はオランダ語とともに広義のドイツ語の1方言――下フランケ ン方言 Niederfraenkisch n ――をなすものですが、平たくいえば英語と標準ドイツ語を たして2で割ったようなもの、といってもいいでしょう。その間の事情を暗示する好例が このブリュージュという地名です。 この小都市の名は現地の言語つまりフラマン語では Brugge[ブリュッヘ]で、ドイツでは これを Bruegge[ブリュッゲ]としています。ところでこの意味は「橋」であって、「橋」は 独:Bruecke、英:Bridge、オランダ語:Brug[ブラッフ]というわけです。これでも明らか なように、英、北ベルギー、蘭、独は言語的にはいわばひとつづきなのですね。なおブリ ュージュ Bruges というのはこの都市名のフランス語形です。わが国ではむしろこの形で 知られているようです。市中を散策してみるとあちこちに美しい堀割が通じていて、そこ に多数の「橋」がかかっています。ブリュージュとは「橋の町」ということなのです。 (1975年8月) (12月号) ツヴァイクとヴィーン 高木 実 しばらく旅行してまたヴィーンの町にもどって 来ると、やっとわが家に帰り着いたような一種 の安堵感をおぼえたものでした。ほんの一二年 の滞在者が異国の町にそんな気持ちを抱くと いうのもおかしな話なのですが、それがヴィーン という町のもつ独特の魅力なのでしょうか。 今でこそヴィーンは人口700万の小国オースト リア (Oesterreich) の静かな首都にすぎません が、かつてはハプスブルク家の治めるヨーロッパ 国家の中心都市として、ここで相対立するさま ざまな要素 ― ドイツ的、スラヴ的、ハンガリ ア的、スペイン的、イタリア的、フランス的、 フランドル的なものが出会い、それがオースト リア的、ヴィーン的なものへと解消され、調和的 なものにつくりかえられていったのです。 ヴィーンに生まれ育った生粋のヴィーン子であった シュテファン・ツヴァイク (Stefan Zweig 1881− 1942) は、ヴィーンの町について、そのコスモ ポリタン的性格と文化・芸術への限りない愛好の 心をあげておりますが、それは60年の激動の生涯 を通じてツヴァイク自身が守り抜いた生の信条 でもあったのです。 1881年ヴィーンの中心の裕福な織物工業家の家庭 に生まれたツヴァイクは、当時のヴィーンの文学・ 音楽などの芸術へのいささか異常ともいえる熱っ ぽい雰囲気の中でギムナージウムの生徒から文学 青年へと成長していったのですが、この時代状況 ― 社会主義思想に熱中した前の世代とスポーツ に熱をあげる次の世代の間にはさまれた芸術至上 主義的な世代 ― について彼の晩年の自伝 「昨日の世界」(Die Welt von Gestern, 1944) が 生き生きと語っています。「ここで生きることは、 あらゆる異国のものを胸襟を開いて迎え入れ、 よろこんで自分をさし出すこの町に生きることは、 すばらしいことであった。この軽快な、パリに おけると同じように明朗さの翼をつけた空気の 中では、人生を楽しく味わうことは、はなはだ 自然なことであった。ヴィーンは人も知るように、 音楽の町であった。しかし文化は、人生の粗野な 素材からその最も巧緻なもの、最も繊細なもの、 最も精緻なものを、芸術と愛とによって機嫌を とりながら取りあげること以外の何を意味する であろうか。音楽をやり、踊り、芝居を演じ、 談笑し、趣味にかない、人の気持にかなうよう に振舞うということは、ここでは特別の技術と して気をくばられた。軍事、政治、商業は、 個人の生活でも社会の生活でも、優位を占める べき事柄ではなかった。ヴィーンのあたりまえ の市民が毎朝の新聞に最初の一べつを注ぐのは、 議会の論争に対してでもなければ、世界のでき 事に対してでもなく、ほかの都市ではほとんど 理解できぬような重要さを公けの生活に帯びて いる、劇場の上演曲目に対してであった。」 ヴィーンの人たちにとっては宮廷劇場やブルク 劇場は俳優が劇を演ずる単なる舞台以上のもの、 大宇宙を映し出す小宇宙だったのであると ツヴァイクは感慨をこめて述べています。 ヴィーン大学在学中に出した処女詩集「銀の絃」 (Silberne Saiten, 1901) によって早くも ヴィーンの文壇に認められ、26歳の時に書いた 詩劇「テルジテス」(Tersites, 1907) は ドレスデンおよびカッセルにおいて同時に上演 されるという幸運なスタートを切ったツヴァイク は、しかし「あまりにもヴィーン的なもの」に 不満を感じ、ヴィーン的な魅力からの脱出を試み、 1900年の一学期を精神的風土のまったく異なる 北ドイツの都市ベルリンで過ごし、その地の 文学サークルの同人と交友を結んだのですが、 やがてまたヴィーンにもどり、1904年24歳で ヴィーン大学哲学博士の学位を得ています。 ツヴァイクの文学にとくに影響を与えたのは、 彼より7歳年長で、ヴィーンでその早熟な天才 ぶりをうたわれたホーフマンスタール (Hugo von Hofmannstahl 1874−1929) とベルギーの詩人 エミール・ヴェルアレン (Emile Verhaeren 1855−1916) でした。 1914年第一次世界大戦が始まり、多数のドイツの 知識人たちが好戦的なドイツの宣言に署名しま したが、ツヴァイクはヘッセとともにこれに加わ らず、普遍的な人間性の尊重、平和主義の立場を 貫き、年長の友ヴェルアレンとロマン・ロランと の友情を保ちつづけました。1919年ツヴァイクは 12年間住みなれたヴィーンの住居からザルツ ブルクのカプツィーナーベルクの館に移り、ここ で40代のもっとも油ののりきった創作活動が 行われ、連作「精神世界の建築家たち」(Baumeister der Welt) の第一巻としてバルザック、ディケンズ、 ドストイェフスキーを扱った「三人の巨匠」(Drei Meister, 1919)、ヘルダーリン、クライスト、 ニーチェを扱った第二巻「デーモンとの闘争」 (Der Kampf mit dem Daemon, 1925) や、短編小説 集「アモク」(Amok, 1922) などが発表されますが、 これらの作品にはヴィーンの深層心理学者フロイト (Sigmund Freud 1856−1939) の強い影響が認められ ます。ナチスが政権をとると、ツヴァイクの著書は 他のユダヤ系作家や学者たち、トーマス・マン、 フロイト、ヴェルフェルらの書物とともに焼かれ、 彼は難を避けてロンドンに居を構えました。 1940年歴史の状況に絶望しながらパリの聴衆を前に 行った講演「昨日のヴィーン」はツヴァイクの魂の 故郷ヴィーンにたいする切々たる思いにあふれ、 それはまた明日の「ヴィーン」を指向している ように思われます。 (12月号)