ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。
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レッシングとヴォルフェンビュッテル 近藤逸子 レッシングは13歳でザクセン選帝侯立学 校に給費生として入学して以来故郷をはな れ、ライプツィヒ(Leipzig)とヴィッテン ベルク(Wittenberg)の大学に学び、その 後もベルリーン(Berlin)、ライブツィヒ、 ハンブルク(Hamburg)など、目まぐるし いほどに居所を変えました。しかしそうや って自由な文筆活動をつづけていた彼も、 30代の半ばをすぎる頃から定職を得ようと していろいろ奔走もしたようですが、結局 ブラオンシュヴァイク(Braunschweig)公 国の皇太子の招きに応じて図書館長の地位 についたのは1770年42歳のときでした。 それから死ぬまでの10年間を彼はヴォルフ ェンビュッテル(Wolfenbuettel)ですごす ことになりました。職を得、結婚すること にもなった定住の地ヴォルフェンビュッテ ルこそはレッシングが「そこに生活した」 と言うに値する唯一の場所であると思いま す。ヴォルフェンビュッテルは今では私た ちにはなじみのない、ひなびた一地方都市に すぎませんが、町の由来は古く、また 1432年から1754年までブラオンシュヴァ イク公国の首都であったところで、王宮も あり、古い由緒ある建物がたくさん残って います。ただ首都の移転ののち、さらに七年 戦争で人口がほとんど半減してしまったと も言われ、すでに淋しい町になっていたの か、レッシングはこの地で孤独を訴えてい ます。「今では生活全体がまことに厭わしい ものに思えることも稀ではありません。私 は毎日を生きて過ごしているというよりむし ろ夢見て過しています。私をたのしませる ことなく疲れはてさせる間断ない仕事、友 達づきあいが全くないために――というの は持つことのできそうな交際は持ちたくな いものなのですから――堪えがたいものに なっているこの場所。」と、婚約者に書き送 っています。婚約者のエーヴァ・ケーニヒ (Eva Koenig)はレッシングのハンブルク 時代の友人の妻でした。その友人が商用旅 行の途中1770年1月急逝し、その翌年二 人は婚約したのですが、夫の財産整理など をすませたエーヴァと結婚できたのはやっ と1776年10月のこと、レッシングは48 歳、エーヴァは40歳になっていました。 しかしその6年ほどにもなる永い交際期間 があったおかげで、私たちには数多くの往 復書簡がのこされることになりました。 いまハノーファー(Hannover)から列車 でベルリーンへ向かって行くと、東西ドイ ツの国境近くにブラオンシュヴァイクがあ り、その町の中央にレッシングの銅像が、駅 近くの墓地に蔦にかこまれたお墓がありま す。ヴォルフェンビュッテルはブラオンシ ュヴァイクから10分たらず、小さな駅を 出てしばらく行くと堀をめぐらした城があ り、その向かい側にレッシング広場(Les- singplatz)とレッシング通り(Lessing- strasse)にはさまれてレッシングハウスが あります。1777年かち死の年の81年まで 住んだ家で、今は記念館になっており、私が 数年前訪れた時には管理人の婦人が子供づ れで案内してくれました。エーヴァは結婚 後1年あまりのクリスマスにここで男の子 を産みましたが、子供は24時間しか生き のびず、彼女も意識を回復しないまま78年 の1月10日に亡くなりました。「もし私が 私に残された日々の半分を犠牲にして、他 の半分の日々を妻と共にくらすという幸福 をあがない得るものであるならば、どんな にそうしたいことか。」とレッシングは親 友にあてて書いています。 この家から庭を通って公家図書館に行け ます。これはかつて(1690〜1716)哲学者 ライプニッツ(Leibniz)も館長をしていた ことのあるヨーロッパ有数の図書館だった と言われています。その頃の建物はもうあ りませんが、古色蒼然とした本がぎっしり 並んでいて、ここも内部を案内し説明して くれます。レッシングは図書館の膨大な図 書や手蹟の中から有用と思われるものを公 刊し始めました。一方彼はかねてある理神 論者が弾圧を恐れて秘めていた遺著を遺族 から託されており、それをここで発見され た文書という体裁で発表してゆきました。 匿名の著者をレッシング自身と誤解した新 教の牧師との間に激しい宗教論争が交わさ れ、ついに彼は当局によって沈黙を命じら れました。この論争文は緊密な文体、縦横に 駆使された機智と皮肉、柔軟な論の進めか たなどによって精彩をはなち、トーマス・マ ンは「彼の最も美しい詩」であるとさえ言 っています。家庭的な不幸に加え、こうした 失意の日々の中で、禁じられた論争のつづ きを劇の形で、より一層感動的効果的につ づけたものと言えるのが「賢人ナータン」 "Nathan der Weise"(1779年刊)です。 ユダヤ人ナータンを主人公に、ヨダヤ教 徒、回教徒、キリスト教徒が結局人間とし ての立場で手をとりあうに至るというこの ドラマ全篇のテーマは宗教的寛容です。 レッシングはヴォルフェンビュッテルで 2度転居しましたが、レッシングハウスに 引っこす前に一時王宮広場(Schlossplatz) に今もある家にいて、そこで結婚、幸せな1 年をすごしました。最初の住まいは城の中 で、面白いことにそこで1772年に「エミー リア・ガロッティ」"Emilia Galotti"を 発表しています。「面白いことに」という のは、この劇は場所をイタリアに移してこ そはありますが、小国の君主の横暴な行為 を扱ったものだからです。当時プロシアは 「王冠を戴いた唯物論」と言われたフリー ドリヒ2世(大王)の時代で、ブラオンシ ュヴァイク公もいわゆる啓蒙君主のひとり だったのでしょうが、そこでもやはり言論 の自由はなかったのでした。「エミーリア」 の公爵は啓蒙君主のひとつのタイプを示し ているように思えます。「賢者ナータン」の 中の「とんでもない!――馬鹿げてるじゃ ないか、幾十万と束にして人間を圧迫し、 疲弊させ、掠奪し、苦しめ殺しておきな がら、一方でひとりひとりの人間に博愛家 らしく見せたがるんだからね」という言葉 は専制君主の慈善の限界に対する辛辣な皮 肉のようです。ともあれ彼はこの地で、生 き、愛し、悩み、書き、闘って病み、療養 先のブラオンシュヴァイクで1781年2月15 日死にました。 (11月号) カップ一揆とラートブルフ 橋本文夫 ドイツの法律学者 Gustav Radbruch [グスタフ ラートブルフ] (1878〜1949年) は、日本 では、かれが初めの Heidelberg 大学私講師の時期に著わした Einfuehrung in die Rechtswissenschaft [アインフュールング...レヒツヴィッセンシャフト]「法学入門」と Rechtsphilosophie [レヒツ・フィロゾフィー]「法哲学」とで有名ですが、かれの本領は むしろ刑法の研究にあり、更に進んでは法の立案、実践的な立法活動に法的知見を活用する 面にあったのです。 Heidelberg 大学では何年待っても刑法講座の空席が生じなかったことと、離婚問題とで 嫌気がさした Radbruch は、たまたま Koenigsberg [ケーニヒスベルク] 大学の員外教授 として招かれましたが、そこでは1学期を過ごしただけで、第1次世界大戦(1914〜19年) 勃発とともに、従軍を志願しました。 復員したかれの目に映じた Berlin は、革命期のさなかで政情不安の中にあり、政治理念 の対立抗争と血なまぐさい直接行動のるつぼでした。 1919年、もとの Koenigsberg 大学へ戻ることのむずかしくなった所へ、友人の好意で Kiel [キール] 大学の員外教授(すぐに正教授)として招かれました。Kiel は祖父も父も 暮らしていたことがあり、かれの生まれた町です。Kiel でのかれの活動は半分はもちろん 法学の部門に属していましたが、残りの半分は政治の領域にあったのです。かれの政治活動 の劇的な頂点をなしたのが、有名な「カップ一揆」(Kapp-Putsch [カップ・プッチュ] m ) をきっかけとしたものでした。1916年、当時の共和的・民主的な潮流の高まりに対抗して、 極右派の Wolfgang Kapp は Vaterlandspartei [ファーターランツ・パルタイ] f「祖国党」 を結成していましたが、1919年夏以来、右翼の諸勢力と手をつないで、クーデターの計画を練 っていたのです。当時はインフレの高進もすさまじく、1913年を1とした Berlin のドル 為替相場は1919年7月の3.59から1920年2月は23.60です。そのため共和制政府はますます 人気を失う一方です。クーデター派の指導者たちも政治的には白痴に近い頭脳の持主ばかり でした。極左分子による暴動が起これば、政府によって忽ち鎮圧されてしまうであろうから、 かえって共和制政府の基礎を固める結果になりはしまいか、そうなると、自分たちのクーデ ターはやりにくくなるだろうとかれらは考えました。そして1920年3月13日、ついに武力 行動に出たのです。 Kapp は海兵隊を使って Berlin の中央政府街を占拠させ、みずから宰相の座に着きました が、このため、各地に労働者のゼネストが起こり、反乱軍と武装労働者との衝突が起こり ました。カップ一揆の第1日(3月13日)Radbruch は国法学者の Dr. Heller [ヘラー] とともに Kiel の造船所に赴き、武装労働者たちの間に軍隊との衝突で流血を見ることの ないよう努力したのですが、地区司令官の海将 Levetzow [レーヴェツォー] によって保護 拘禁の名目で逮捕されました。2人は Kiel 市外の兵舎に入れられ、臨時志願の学生たち に監視されました。ところが早くも6日目には、Kapp 政権失脚の結果、2人は自由の身に なったのです。しかし町の様相は険悪でした。停戦は結ばれたものの、各地に発砲があり、 疑惑と憎悪がみなぎっていました。労働組合の建物の中には、多数の将校や兵卒が捕らわ れていて、こんどはこの人たちの命を民衆の怒りに対して守ってやるのが、Radbruch の 使命になりました。かれはこれら150名を割り当てられた兵舎まで市中を通って引率して いき、無事に送り届けたのです。またもう1回は夜間の輸送もしなければなりません でした。このあとまだいろいろな後始末の苦労がありましたが、3月24日、労働者32名の 死者の葬儀が Radbruch の弔辞のもとに行われました。なお Kapp は失脚後スウェーデン に逃れていましたが、後に自首し、1922年 Leipzig で未決拘留のまま死んだとのことです。 Radbruch はこの Kapp 一揆の際に採ったかれの態度を高く買われて、労働者階級と固く 結ばれたのみならず、社会民主党の党員として1920〜24年、国会議員となることができ ました。また1921年10月26日〜22年11月22日、Wirth [ヴィルト] 内閣の法相となり、第1 次および第2次 Stresemann [シュトレーゼマン] 内閣でも、1923年8月13日〜11月2日、 法相を勤め、多くの業績を挙げました。1926年から再び Heidelberg 大学教授として刑法 を講じ、1933〜45年にナチスに追われた英国滞在期間を除いて、1948年退職まで同大学に 勤めていました。息女と息子とに先立たれ、晩年はひっそりとした暮らしでした。 (11月号)