ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。
この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。
劣等感と自信満々 真鍋良一 今年の6月14日の朝日新聞に同志社大学のオーテス・ケーリ教授が、英語教育改革に関 する論評の中で、痛烈きわまりないことを書いておられます。「英語の先生をなおさない限 りよくならないというのが、前からの大体の結論だったが、何十万という日本国中の英語 の先生は一つの職業にかたまっていて、英語の力に対する劣等感からくる同業者意識で、心 理的に団結を組むと、これには手がつけられない」と。 この論旨の可否は別として、私の注意したところは「英語の力に対する劣等感」というと ころです。ドイツ語のほうはどうかしら、と反省して見たわけです。が、どうもドイツ語 の分野は、量的にも質的にも、英語にくらべてまだレベルが低く、したがって競争相手が 少なく、ちょっとできるようになれば、すぐ自信をつけ易い(そういう人が多い)という傾 向にあるのではないかと思います。その証拠には、ドイツでは言葉に「不自由しなかった」 という人には ――これは会社員や、ちょっと欧州へ行ってきた学生なども含めてですが―― 始終お目にかかるのですが、「不自由した」という人には、あまりぶつからないからです。 何といっても外国語なのですから、日本語でやるように、何もかも思い通りに喋ったり 書いたりはできないはずなのですがね。「どうも」(これこれのことが)「うまく言えないで 困りましたよ」とか、「どうも舌たらずになっちゃって」とおっしゃる方のほうが、不自由 しなかった人たちより実力があるようです。 「ドイツ語で不自由しない、困らない」と言うのは、裏から言えば「劣等感」をかくすた めの意識が働くからではないですか。だから学問の分野でも「心理的団結を組む」傾向が生 じるのではないかな。 ケーリ教授の言にはもちろん一理ありますが、ドイツ語界で警戒、自戒すべきは、「劣等 感」よりも、むしろ「自信満々」「俺はできるんだ」のほうじゃないかと、私は思っており ます、どうも superiority complex のほうが多いようです。 私がドイツ語を習った先生がたは、いずれも大家ばかりでしたが、ドイツ語のことで「お いばりになった」ことは一度もありませんでした。 (10月号) ワーグナーとバイロイト 荒井秀直 ミュンヒェン大学では、毎年5月、夏学期が はじまるとすぐ、「バイロイト (Bayreuth) 祝祭劇観劇バス」の予約を受け付けるポスター が出ます。このバスを利用しますと、当日朝 大学前を出発し、午后バイロイト着、「パルジ ファル」(Parsifal)とか「ニュルンベルクの マイスターズィンガー」(Die Meistersinger von Nuernberg) とかをきいたあと、11時ごろ バイロイトを発ち、翌日の夜あけ前にミュン ヒェンに帰って来ます。これは誰にでも利用 できるというものではありません。町の旅行 案内所 (Reisebuero) でも同じようなバスに よる観劇旅行を募集していますから、これを 利用するのもひとつの手ですが、私自身どうも こういう観劇の仕方は好きではありません。 そこでマーペースでバイロイト詣でをするため には、どうしても前の年の11月頃からはじまる 予約受付を待ちかまえていて、受付開始と同時 にサッと申し込むことになります。いくら くらいの切符といくらくらいのホテルに何泊、 というように申し込みます。折り返し受付 番号を書いた返事が来、それから正式に切符 とホテルをたしかに確保したという通知が来 ます。これでいよいよバイロイトの舞台を見る ことができるようになりました。 さて当日、ミュンヒェンからは汽車で行くこと にしましょう。ニュルンベルクを通ってゆく のと、レーゲンスブルク (Regensburg) を経由 するのとコースはふた通りありますが、いずれ も 300キロたらず、朝10時頃の汽車にのれば 午後2時頃にはバイロイトに着きます。 開演までにはまだ3時間ほどあります。ワグ ネリアンのメッカであるこの町は、ひとまわり するのに1時間もかからない小さな町ですが、 見物は帰る日にでもゆっくりしたほうがよい でしょう。予約しておいたホテルに旅装を解き、 駅でもらったパンフレットなどに目を通し ながら、ロビーでひと休みとゆきましょう。 なにしろこれから5時間以上も劇場にいるの ですから。 この町が今日のように世界の注目を集めるよう になったのは、もちろんワーグナーのおかげ ですが、町の歴史はかなり古く、12世紀の文献 にあらわれています。しかし最盛期を迎えた のは、18世紀、フリードリヒ大王 (Friedrich der Grosse) の妹ウィルヘルミーネ (Wilhelmine) が辺境伯フリードリヒと結婚し、この地を治め るようになってからでした。バロック・ロココ 時代の代表的な劇場であるオペラハウス、15世紀 の教会、新旧の宮殿、などのほか、ワーグナー の家ヴァーンフリート (Wahnfried), ワーグナー 博物館、それに郊外の離宮エルミタージュ (Eremitage) などが戦火を免れて今日に残って います。これらはいずれゆっくりと見物すること にしましょう。 ワーグナーがはじめてバイロイトを訪れたのは、 1835年7月下旬のことです。彼は新人歌手を探す ため南ドイツへ旅行する途中ここへ立ち寄ったの でした。ここがのちには彼の故郷となるなどとは、 当時の彼は夢にも思っていなかったでしょう。 この旅行で忘れがたい印象をあたえたのは翌日あるい は翌々日に泊まったニュルンベルクの町の出来事 でした。彼は夜中の路上で大勢の人が入り乱れて ケンカするさまをまのあたりに見たのです。この時 の様子がのちに「ニュルンベルクのマイスター ズィンガー」第2幕幕切れのなぐり合いの場と なって作品の中によみがえってきます。 それから30年がたちました。その間ドレースデンの 五月革命に参加して追われる身となったワーグナー は、各地を転々としていましたが、1864年、思いも かけぬバイエルン王ルートヴィヒ2世 (Ludwig der Zweite) の招待をうけ、彼は活動の場をミュンヒェン に移します。このとき彼は「トリスタンとイゾルデ」 (Tristan und Isolde) を書き上げ、「ニーベルング の指輪」(Der Ring des Nibelungen) も「ラインの 黄金」(Das Rheingold) と「ワルキューレ」 (Die Walkuere) を完成、「ジークフリート」(Siegfried) も第2幕まで書いて、以後の作曲を中断していました。 彼は国王の援助を得て「トリスタン」とミュンヒェン で完成した「マイスターズィンガー」を初演しますが、 「指輪」は4曲まとめて上演するつもりでいました。 彼はそのための劇場をミュンヒェンに建てようと 考えました。建築家ゼンパー (Gottfried Semper) に よって計画され、「ニーベルンゲン劇場」と名づけ られたこの劇場は、結局陽の目を見ることなく終わり ましたが、もしこれが出来ていれば、ミュンヒェン こそワーグナーの町となったのです。彼は百科辞典で バイロイトのオペラハウスのことを知り、視察に行き ますが、これはとても「指輪」を上演できる劇場では ないので、彼はこの地に自分の劇場をたてる決心を します。バイロイトをえらんだ理由として彼は、 バイエルン国王の援助に応えるため彼の建てる劇場は バイエルン州の町にあること、この町がドイツの中心 にあること、現在使用中の劇場のないこと、最も不似合 いな人たちが多く出入りする湯治場でないことを あげています。用地の決定までにはいろいろありました が、1872年5月22日、彼の59歳の誕生日に祝典劇場 (Festspielhaus) の定礎式は行われました。彼は財政 上の基盤を得るために、ワーグナー協会、バイロイト 後援者協会を設立し、各地に転々と演奏旅行を行い、 お金のために作曲もしました。一方ではゼンパーの プランによる劇場の建築、歌手の募集、「神々のたそ がれ」(Goetterdaemmerung) の完成、さらに「指輪」 の稽古と、じつに精力的に活躍し、ついに1876年8月 13日〜17日「ニーベルングの指輪」の上演によって 祝典劇場の幕をあけました。今からちょうど100年前 のことです。 (10月号)