ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。
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誤 訳 真 鍋 良 一 むかしの翻訳書にはたいがいはじめのほうに「訳者序」という「はしがき」がついていま した。今の翻訳書にはだいたい「あとがき」というのが巻末についていますが、それが 訳者序として巻頭にあったわけです。そしてその序文のおわりに、これまたたいがいは 「○年○月 訳者識(しる)す」とありました。自分の姓名か、または単に「訳者」だけで 十分なのですが、むかしはこの「訳者識す」が一般的でした。当時も今と同じに誤訳とか 珍訳拙訳などがあったものですから、関口先生が「訳者識す」はもう結構、「識者(しき しゃ)訳す」という立派な翻訳がほしいと皮肉られたことがあります。 出版物、特に辞書には誤植はつきもので、これは宿命的だそうですが(郁文堂ブルネン172 号より)、翻訳も人間のやることですから、完璧は望むほうが無理で、やはり誤訳はつき ものかも知れません。かつて「誤訳」(W.A. グロータース/柴田武)という本が出て、一時 大きな話題になったこともありますし、最近もその種の本が出ているようです。宿命と諦 めきれないものがあるのでしょう。 誤植も誤訳も、まあ仕方がないとしても、程度の問題ですね。本年3月11日の東京新聞の 「大波小波」欄から引用させていただくと、「フライド・ポテトがビフテキの理想的な つけ合わせではないことに気づかない中に、人間は火星に行くだろう」という訳文がある そうです。(「人類が火星に行くような時代が来ても、フライド・ポテトがビフテキの理想 的なつけ合せであることに変りはあるまい」というのが、本当の日本語訳だと説明が ついています。) が、これは直訳なのでしょうか、誤訳なのでしょうか。最近はこの種の 訳があまり多いので、「大波小波」の筆者は文芸時評のように「翻訳時評」を設けて誤訳 退治をしなければいかんと言っております。ごもっともです。 相当名前のある人の翻訳などに誤訳があると、よく「ご自分でお訳しになったのではない でしょう、お弟子さんか何かがやったのでしょう」という声もききますが、訳者以外の人 が訳者として名前をかして出版する、こういうのはやはり詐欺出版でしょう。これもやはり 退治したほうがよい ― ということは、責任者をもっとはっきりさせておいたほうが、 良心的なよい翻訳ができるでしょうし、翻訳力不足の人(これは自覚症状の有無の問題で すが)は翻訳などという大それたことはしなくなるでしょうから。 (7月号) ヘッセとカルフ 信岡資生 ドイツの西南部に広がる森林丘陵シュヴ ァルツヴァルト(Schwarzwald)の北部 に、ナーゴルト(Nagold)の清流に沿って、 森と草原の緑に囲まれた Calw という名の 小さな町があります。町の呼び名は、たい ていの辞典ではカルフ[kalf]となってい るのに、地元の人はカルプ[kalp]となま っているようです。いずれにしても、元来 のドイツ語の綴りにはないCで始まる人口 1万2千のこの町は、もしここで、日本で もっとも愛読される外国作家の1人ヘルマ ン・ヘッセ(Hermann Hesse 1877―1962) が誕生しなかったら、わたしたちの関心を ひくことはなかったでしょう。この町につ いてヘッセは、「ブレーメンからナポリ、 ヴィーンからシンガポールまで、わたしは さまざまな美しい町を見てきた。……しか しそれらの中でわたしの知るいちはん美し い町は、ナーゴルトに沿うカルフ、この小さ な、古い、シュヴァーベンのシュヴァルツ ヴァルトの町である」と述懐しています。 今は静かに、谷間に眠っているようなこ の町も、近世初期には、ヴュルテンベルク (Wuerttemberg)公国随一の富裕都市であ り、カルフ出の織物商人が、全ドイツのみ か∃−ロッパじゅうに出向いて活躍してい たのでした。土地が農耕に適さなかったた め、住民は早くから、製布、染色、皮鞣(かわなめし) 業に従事していました。ヘッセが故郷の町 を作品の中でしばしば親しみをこめて Gerbersau[ゲルバースアオ]「川畔の皮鞣業 者の町」と呼び,その住民をGerbersauer [ゲルバースアオアー]と呼ふのはこのためで す。 町の中心部にある、古い石畳の市場広場 に面し、市役所と斜向いに立つ家屋の一室 で、ヘッセは伝道師の息子としてうぶ声を 挙げました。その家は現在服地店となって いますが、入口の柱に「この家にて1877年 7月2日ヘルマン・ヘッセ生れる」と刻ま れた銅版の額がはめこんであります。 1952 年の夏、ヘッセの75歳の誕生日を記念して 掲げられたものです。 ヘルマンは、生後、幼年時代をずっとこ こで過ごしたわけではありません。父の仕 事のつごうで、彼が4歳のとき一家はスイ スのバーゼル(Basel)に移住し、9歳のと き再びこの地に戻ってきたのです。そして l3歳の年、ゲッピンゲン(Goeppingen)の ラテン語学校に入るまで、カルフで育ちま した。つまり、もっとも感受性の強い発育 期である少年時代を、彼はこの町で送った のです。そのため、カルフの町は、彼の詩 心のふるさととなり、この町の風景と雰囲 気は、彼のすへての作品にしみこみ、にじ み出ていると言えるのです。「わたしが詩 人として、森や川や草原の谷間や、クリの 木蔭やモミの香りについて語れば、それは カルフの周りの森、カルフを流れるナーゴ ルト、カルフのモミの森とクリの木のこと だ。市場広場も、橋も礼拝堂も、ビショフ 通りもレーダー通りも、沼地もヒルスアオ 草原の小道も、わたしの本のいたるところ に、シュヴァーベンであることをはっきり させていない本の中にも出ている。なぜな ら、これらの情景はすべて、他の多くの情 景と共に、かつての少年にとって原像とな り、わたしは「郷里」にではなく、これら の惰景に生涯を通じて忠実に感謝を捧げて きたのであるから。それらはわたしとわた しの世界像を作りあげるのに役立ったの だ」と、ヘッセは選集「Gerbersau」(1949) の序文に書いています。 町のほぼ中央で、ナーゴルト川を東西に またぐ橋がニコラウス橋です。雑色砂岩の 煉瓦(れんが)造りで、三つの半円拱(きょう)を持ち、 真中よりやや市場広場寄りに、上流の側に, 赤茶けた小さなゴシック式の礼拝堂が建っ ています。これがヘツセの作品によく登場 する Brueckenkapelle[ブリュッケン・カペレ] 「橋の礼拝堂」で、彼が町の中で「いちばん好 きな場所」であり、「これにくらべれはフィ レンツェの聖堂広場も何の価値もない」の です。「車輪の下」(Unterm Rad,1906) のハンス(Hans)も、この橋の上で受験勉 強に疲れた頭をいやします。「青春は美し い」(Schoen ist die Jugend,1916)の「わた し」も、故郷の町に帰省して旅装を解くと まっさきにこの橋へとやってきます。この 下を流れる川で、少年ヘルマンは水泳し、 魚を釣り、筏(いかだ)乗りをしたのでした。現 在は、たびたびの氾濫(はんらん)による被害にこ りた町の人びとが、川筋の修正工事を施し たので、橋の下を流れる水量は少なく、水 車小屋も水門も見られなくなっています。 橋から下手、川の左岸をレーダー通りが 走っています。ヘッセが少年時代の大部分 を過ごした祖父の家は、この通りにありま した。古風で清楚(せいそ)な邸宅が並ぶこの通り は、幅広く、平坦ですが、これと交わるい くつかの小路は、狭く、暗く、曲りくねっ ていて、「車輪の下」や「デーミアン」 (Demian,1919)や「子供ごころ」(Kinder- seele,1920)の「明るい世界」と「暗い世 界」の対照を想起させます。知識階級の家 庭の暖い庇護を受けて、幸せな生活を送る 少年が、すぐ隣り合わせの、無知と貧困の 渦巻く世界を知ってその悪徳の誘惑を断ち 切ることができずに悩むのです。ヘッセが 一生取り組んだ二元の対立とその克服の問 題の始まりが、ここに見られるようです。 (7月号) 後見人ベートーヴェン 石部雅亮 1795年、ヴィーンですでに天才的音楽家 として名声を博していたベートーヴェン (Ludwig van Beethoven)は、2人の弟を 自分の許に呼び寄せました。すぐの弟カー ル(Kar1)は、ヴィ−ンで官吏となり、後 に帝国銀行の出納係になりました。ここで 取り上げるのは、べートーヴェンとこの弟 の子供で、ただひとりの甥にあたる力一ル との関係です。 1815年11月15日、弟カールは、妻ヨハ ンナ(Johanna)と9歳の子供を残して亡 くなりました。こうした場合、未成年の子 のために、後見(Vormundschaft)が開始 し、父に代わって後見人が子の監護教育、そ の財産の管理の任務を引受けることになり ます(オーストリア民法187条以下)。カー ルは、死の前日、遺言書を作成し、ベートー ヴェンを後見人に指定しましたが、直ちに 遺言の追加をして妻と兄とが後見をおこな うように改めました。そして「わが兄を子 供の後見人とすることによって私が定めた 目的は、ただ協力によってのみ達成され る。子供の幸福のために、私は妻には従順 な態度を、わが兄には一層控え目な態度を 取られるように依頼する。神よ、子供の幸 福のため両人を協調させたまえ。これが夫 として、弟としての最後の願いである」と 記したのです。この遺言に基づいて、裁判 所(Niederoesterreichisches Landrecht― Recht は Gericht に等しい ― ベートーヴェ ンは名前に van を有するから貴族とみら れ、事件はこの上級裁判所の管轄に服した) は、カールの後見人として母と伯父を選任 しました。これが晩年のべ―トーヴェンを 懊悩の極にまで追いやった悲劇的事件の発 端です。 共同後見という在り方自体紛糾の因にな りやすいのですが、この場合後見を引受け た人物の性格が並はずれており、すでに相 容れない間柄であったのですから、両後見 人の間に激しい争いが繰りひろげられる ようになったのは不思議ではありません。ヨ ハンナは典型的な悪女タイプで、夫の生前 不貞を働いたこともあり、その死後にはた ちまち多額の借財をして、子供との共同所 有であった家を抵当に入れたこともありま した。母親の利己的な愛情から子供を手放 すまいとします。それに対してベートーヴ ェンは、独身で、もう聴力も失い、世俗と 相容れない生活をしており、自分ひとりの 暮しも覚つかないのに、小さな子供の面倒 をみきれるものではありません。それにも かかわらず、疲は甥のカールにほとんど盲 目的な愛情を注ぎ、手もとにおいて理想的 な教育を施そうとしたのです。 互に憎しみ合う肉親の間にはさまれて、 繊細な子供の心はどんなに傷つけられたこ とでしょう。カールの性格はだんだんと歪 んでいったのです。この後見をめぐるいざ こざは、またベートーヴェン自身の健康、 精神状態、芸術的創造力にも破壊的影響を 及ぼしました。晩年のベートーヴェンは、 血の絆にとらわれ愛と憎しみのるつぼの中 で苦しみ抜いたのでした。 裁判所によって後見人が選任されると、 これに対しベートーヴェンはヨハンナの不 行跡を理由に彼女が主たる後見人として不 適格であると異議の申立をしました。なが い審環の結果、1816年1月裁判所は彼に有 利な判決を下しました。単独後見人になっ たものの、子供の世話をすることは、並大 抵のことではありません。そこでカールを ヴィーンのある有名な私塾に預け、そこに 毎日のように会いにゆくことにしたので す。ところが子供を奪われた母親もいろい ろ画策してカールに会おうとしました。こ れに対しヘートーヴェンは、裁判所に訴え て微女の面会を禁止しようとします。裁判 所は、母親は自由時間に特定の個人の立会 いの下に限り子供を訪問できると判決しま した。このような措置が子供の教育に有害 なのはいうまでもなく、カールは次第に嘘 をつく反抗的な子になってきました。とう とうベートーヴェンは甥を自分の厳格な監 視の下で教育しようとするのですが、また また召使を買収しても子供に会おうとする 母親の術策に神経をすりへらしてしまいま す。カールが家出してきたのを口実に、ヨ ハンナは後見を奪う訴訟を提起します。こ のとき決定的だったのは,オランダの van はオーストリアの von ではない、ベート ーヴェンは貴族ではないという主張でし た。そこで事件は貴族の第1審裁判所であ る Landrecht からヴィーンの市裁判所 (Magistrat)に移されたのです。その結 果、ベートーヴェンは後見を放棄しまし た。その後も後見をめぐる争いは続き、一 たんヨハンナと市供託物管理人ヌスビック (Nuβbick)に後見が移ったこともありまし たが、結局1820年控訴裁判所は市裁判所の 判決を破棄してベートーヴェンと宮廷顧問 官ペーター(Peter)とを共同後見人に選任 しました。ヨハンナは皇帝に上訴したので すが、認められませんでした。 ベートーヴェンはこの勝利に束の間の満 足をえたにすぎませんでした。というの は、カールが彼の期待に反して自堕落な道 を歩み始めていたからです。受験の失敗、 怠惰と放蕩、そして最後にはピストル自殺 未遂事件を起してしまいます。ベートーヴ ェンの嘆き悲しみはここに極まったという べきでしょう。しかしカールはこれを転機 に軍人となり、そこでは生れ変ったように 明るく善良で人望のある将校になったとい われます。ベートーヴェンのあの血を絞る ような努力は全く徒労だったのでした。 (7月号)