基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第26巻第1号−第12号(昭和50年5月−昭和51年4月)

 根 気
                真 鍋 良 一

ある有名な画家の息子さんで、やはり画道に志している友人が、こんなことを言ったこと
があります。「絵というものは才能だけで描けるものじゃないのですよ。忍耐力と根気が
なければとてもダメ。僕などはその点で遠くおやじに及びませんよ」と。

これはある有名な彫漆家の言。「今の人は同じものに漆を100回もぬっていくという根気が
ないのですよ。はじめはその気になってやりはじめても、忍耐力がないので、やめてしま
われる」と。言葉通りではありませんが、こんな意味のことを言うのをききました。

もうひとつ。これはもう40年以上も前、昭和5,6年の頃でしょうか、京都大学とライプ
ツィヒ大学との間に交換学生制度ができたときです ― ついでながらこれが日本最初の
学生交換で、当時京大におられた故イューバシャール先生とドイツ文学主任教授の故成瀬
無極先生のご努力によるものでした ― その頃3人目の交換学生として来日したフィント
アイゼン君が言っていました。「日本の学生は忍耐力、根気がないですね。ひとつのこと
にしんぼう強くねばれば、日本ではかならずエラクなれると思う。しかしドイツではダメ。
ドイツ人はどいつもこいつも根気があるから。根気だけではエラクなれない」と。

少しお説教じみますが、どうも物事は根気が大切なようです。最近はドイツ語の教授法も
昔とちがって、ずい分進歩したと思うのですが、ある古い先生が言っておりましたが、
どうも明治大正時代の教え方のほうがよかったのではないか、と。どういう教え方かと
申しますと、教わる側、つまり生徒の根気とねばりを前提としたやり方なのです。今は
どちらかというと、いたわり型で、根気とねばりは先生のほうに求められるような傾き
すらあります。

では根気とは何かと言いますと、ある辞書には「物事に飽きたりしないで、最後までやり
遂げようという気力」とありますが、人間ですから飽きることもあり、気力が衰えること
もあります。しかし、要は「やめないこと」です。やめたらもう元も子もありません。
根気は別に速い遅いを問題にしませんから、やめぬことです。やめなかった人だけが、
教授法の如何にかかわらず、残ります。
     (5月号)



マイアー・フェルスターとハイデルベルク
                     渕田一雄

ハイデルベルクといえば,ネッカル河を
見おろす古城と、14世紀後半創立の古い大
学と、特に Alt-Heidelberg [アルト・ハイ
デルベルク]という芝居でわれわれになじみ
の深い古都です。7月末の暑い昼さがり、
ホテルで教わった、市電が通ると町中い
っぱいになってしまうような中央通りの
Perkeo [ペルケーオー]という古風な料亭
(この Perkeo という名も18世紀初頭、
ここの城主に仕えた小人で Scheffel[シェ
ッフェル]の詩にも歌われた酒豪 Klemens
[クレーメンス] Perkeo に因んだものです)
でぶどう酒とドイツにしては珍しくおいし
い食事をすましたわたしたちはお城と大学
をざっと見て、こんどは河向うを歩こうと
いうので、Theoder[テーオドール]橋とい
う立派な門構えのある橋を渡って有名な
Philosophenweg[フィロゾーフェン・ヴェー
ク]「哲学者の道」へ出ました。この道は
緑濃い山裾を縫いながらネッカル河を眼下
に、さらに対岸の古城や大学や、いやほと
んど古い町全体を一望にすることのできる
眺望絶佳な散歩道なのです。ゆるい坂路を
上ったり下ったりしていると、どこからか
珍しく蝿が一匹羽音を立ててしばらくわた
したちと同行しました。これが本当の「ハ
イ出るベルクだ」と大笑い。案内図を拡げて
みると、付近にはこの地にゆかりのある詩
人Hoelderlin[ヘルダ−リン]や、Eichendorff
[アイヒェンドルフ]の名のついた Anlage
[アンラ−ゲ]「小公園」があります。この路
を少し河のほうに下った Scheffelstrasse
〔シェッフェルシュトラーセ]「シェッフェル通
り」のあたりに「シェッフェルの家」Schef-
felhaus というのがあって、これが Alt-
Heidelberg の舞台となったRueder[リュー
ダー]の旅館のモデルだというので、かわ
いたのどをビ一ルでうるおすのも一興と、
地図をたよりに、これと思われるあたりを
グルグル回ってみましたが、方向オンチの
せいか、ついにそれらしいものは見つから
ず、川岸へおりてコ−ラで暑さを凌ぐとい
う、まことに色気のない結果に終ったの
は、いま考えでも残念でしかたがありませ
ん。

ところで、この日本で有名な Alt-Heidel-
berg の作者 Meyer-Foerster[マイアー・フ
ェルスター](1862〜1938)はこの"Alt-
Heidelberg" (1901)だけで辛うじて名を止
めている通俗作家で、今ではほとんどドイ
ツ人の記憶に残っていませんし、日本でも
今の若い人たちには名前さえ知られていな
い作家ですが、1903年以前にはこの劇は上
演回数において他を圧しており、日本でも
大正2年松井須磨子が文芸協会第5回公演
として昔の有楽座で上演したのを皮切り
に、若き日の岡田嘉子が山田隆称を相手に
舞台協会で上演、殊に大正13年の築地小劇
場では故友田恭助のカルル・ハインリヒ、
田村秋子のケーティーで上演、このお2人
の間にロマンスが生まれ、ついに結婚にま
で発展したことは、わたしたち老青年には
忘れ得ぬ記憶です。その後もいくどか舞台
にかけられ、その度に大当たりを取ったの
は、ネッカル河と古城を背景にした甘くほ
ろにがい感傷的なこのロマンスが、わたし
たち日本人の素朴な心の琴線にじかに触れ
て感動させるものがあったからでしょう。
劇の筋は一種の「ローマの休日」で、力
ルルスブルク(架空の国名)の大公の甥で
後つぎのカルル・ハインリヒが、息のつま
るような形式一点張りの宮廷生活から一年
間の予定でハイデルベルク大学に遊学しま
す。宿所はリューダーの経営する酒場兼業
の旅館で、店を手伝っている主人の姪で
18歳の美しいケーティーと恋をし、歌とビ
ールと恋に青春を満喫する解放された日夜
を過ごしますが、明日はケーティーとネッ
カルに舟遊びしようと約束しているとこ
ろへ、大公重病の知らせが来て、楽しかった
夢のような日もわずか4か月、いとしいケ
ーティーと涙の別れをして、陰気なカルル
スブルクに連れ戻され、またもとの灰色の
生活に埋まってしまう。2年経ってもう大
公のあとを継いでいるカルルは、かねて婚
約中の公女との結婚式をまじかに控えて、
ハイデルベルクでの楽しい日々とケーティ
ーのことを忘れかねながら、生気のない城
中の日々を過ごしている。と、そこヘハイ
デルベルクからなじみの老人がたずねて来
て、すっかり変ってしまったハイデルベル
クの近況を伝える。何もかも変ってしまっ
たその地にケーティーだけは元のままリュ.
ーダーの酒場を手伝っていると聞いたカル
ルは、即刻ハイデルベルクへ2日間の予定
で旅行の決心をする。翌早朝の汽車で供
を一人連れて出かけるが、彼を迎えたのは
礼装に身を正してしゃちこばった学生団
で、その歌声もうつろに力なく、かつての
若々しい感激の片鱗も感じられない。そこ
へ急を聞いて馳けつけたケーティーを見
て、はじめてカルルの心は昔に返り、ふた
りは激しく抱擁する。「何もかも昔のまま
だ ― ただ人間だけが変ってしまった 一
変らないのはケーティー、君だけだ。」2
人は楽しかった日の思い出にふけります
が、すべてはもう取り返しのつかない夢で
す。ケーティーは近くオーストリアの婚約
者のところへ嫁ぐことになっています。
― 出発の時間が追って来ました。「これ
がハイデルベルクヘの最後の旅だ ― お互
いに一生覚えていようね。ぽくは君を忘れ
ない、君もぼくを忘れない。ハイデルベル
クへのぼくの憧れは君への憧れだったのだ
― ぼくの愛したのは君だけだ!」― ケ
ーティーは無言で見送っていたが、やがて
顔をおおって激しくむせび泣く‥‥(静か
に冪)

いやはや Gute alte Zeit[グーテ・アル
テ・ツァイト]「古き良き時代」ですね。
     (5月号)

             

 

 

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