基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第25巻第1号−第12号(昭和49年5月−昭和50年4月)

クラーナハ
             前田富士男

ルーカス・クラーナハ(Lucas Cranach der Aeltere 1472-1553)が「ルターの町」「宗教
改革の町」として有名なエルベ河河畔のヴィッテンベルク(Wittenberg)にやって来たの
は、1505年のことでした。ヴィーンからの長旅の末にクラーナハ夫婦が旅装をといたこの
地には、ザクセン選挙侯の宮廷画家 Hofmaler という新しい仕事が彼を待っていたからで
す。年俸100グルデンをもって彼を招いたのは、フリードリヒ賢侯 Friedrich der Weise
(在位1486-1525)でした。

選挙侯の城下とはいっても当時の Wittenberg は、たかだか四、五百軒の家並をつらね
る小都市であり、地理的にもドイツ北東に位置する植民地的な辺境都市でした。デューラー
の住んでいたニュルンベルクに比べれば、いわば文化果てる地であったわけです。しかし
デューラーの描く肖像画にもその精悍な表情を見せているフリードリヒ賢侯は、人文主義
的な教養に厚く、クラーナハを招く3年前には大学を創設し、1508年にはルターを大学に
迎えました。1517年の「95箇条のテーゼ」がやがてヨ−ロッパ文化に大転換をもたらす契
機となったことはあらためて述べるまでもありません。

宮廷画家としての、そしてルターの真率たる理解者としてのクラーナハ。この二つの貌
のうち、ルターとの個人的親交は今はおくと
しても、クラーナハの芸術には常に宮廷画家
という地位がわかち難く結びついています。

たとえば蠱惑的なという形容が不可欠なあ
のヴィーナスたちに見られる尊大さ、含羞を
知らない華奢な姿態、農民の健康さはもちろ
ん理想的人体の肉づけも拒む一種人工的な裸
身、無意識に口もとを飾る媚び、物憂い冷た
さの魅力は、宮廷あるいは貴族階級という背
景なしには考えられません。事実、彼の息子
たちと職人からなる工房 Werkstatt は、肖像
画・祭壇画はじめ紋章や衣裳のデザイン、大
砲の装飾にいたるまで宮廷に必要なありとあ
らゆる仕事をこなしながら、クラーナハ工房
の蠱惑酌女性たちを求める諸宮廷からの広い
愛好にこたえるべくこうした作品を次々と制
作しました。彼の墓碑に「pictor celerrimus
(早描きの画家)」と刻まれているように、入
念な素描も試みないまま工房の助けもかりて
多数の作品を制作したようですから、多くの
場合クラーナハ自身の手になるか否かが判然
としません。今年の9月スイスのバーゼル(Base1)で開
かれた大展覧会では、自筆と確証できる作品から他人の
手になる模写といえるものまで、彼の作品を実に9つの
グループに分類する提案がなされたほどです。

時代はたしかに画家の社会的地位の向上を迎え、クラ
ーナハ自身営廷画家に属していたことで同業組合 Zunft
の画家に比べればいろいろの点で有利だったことは事実
ですが、それにもましてクラーナハほど恵まれた生活を
送った画家は、のちのルーベンスを除いてはいないとさ
えいえるでしょう。不遇、貧困、不安、渇仰といった画
家につきまとう宿命とは無縁でした。1508年には有翼の
蛇の紋章を許され、いわば騎士と同格に列せられ、1525
年には市参事会員となり間もなく市長の職にもついてい
ます。Wittenberg 最高のこの名士にとって、しかし、決
して名声欲や野心ばかりが心を占めでいたわけではあり
ません。彼の三人目の君主ヨハン・フリードリヒ寛大侯
がシュマルカルデン戦争の際、新教弾圧策をとるカール五世に敗れ虜囚となるや減刑嘆願
に赴き、あるやは侯が新教側の勝利によって再び自由の身になると、家臣・友人として侯
の隠棲の地まで従って生涯を共にするクラーナハには、権謀術策をこととする宮廷人には
いささか不似合な姿、誠実なる僕という姿を見ることさえできます。

しかし、彼の作品に戻ってみると、実に、少なからぬ美術家がまさに嘆息をもって彼
の宮廷画家時代を眺めてきたことも忘れてはならないでしょう。

優雅な宮廷的作品からたとえば有名な「エジプト逃避途上の休息」(Ruhe auf der Flucht,
1504, Berlin)に眼を転じれば、ヴィーン時代のこの作品の前では女性たちの官能性も色褪
せるようです。聖書の記述にもはやとらわれることなく場面はドイツの森に移され、ヨセ
フもマリアも当時の民衆の服をつけ、聖家族の夏の一日を樹蔭に遊ぶドイツの一家族にか
えられています。幼いイエスが思わず身をのりだし
てしまうほど楽しげな天使たちのおふざけ。図像学
的な制約から自由なこうした新しい宗教画のあり方
はまたさらに、自然風景と人物の見事な融合をえて、
この時代のドイツ絵画の頂点のひとつを告げている
ものです。背景に遠く退く山野、ヨセフの肩を抱く
ように垂直にのびる樅の木にはヴィーン遍歴中に知
ったであろう画家アルトドルファーの存在が惑じら
れます。デューラーやホルバインという天才たちさ
えなしえなかったこうした風景と人物のロマンティ
ックな融合を思えば、美術史家たちの嘆息も納得せ
ざるをえません。とはいえ現代の私たちの Kitsch
な日々からすれば、やはりヴィーナスの宮廷的優雅
さこそ好ましいものなのでしょうか。

(クラーナハは同名の次男と区別するため、 Lucas
Cranach der Aeltere(d.Ae.)とよばれています。)
    (3月号)



ドイツ美術の歴史(3)
     ゴシック美術
            小塩 節

はじめてドイツに行って、ライン河沿いに
北上してケルンの町に着いたとき、駅のまん前
の大聖堂を見て息をのんだのを思い出します。
巨大な二本の尖塔が大地に足をふまえて空高く
聳え立ち、塔の突端は雲にかくれていました。
それはただ大きいというだけでなく、実に
無数と言いたいほどの小塔をそなえており、
それらの小塔がぼくの目には全部が下へ下へと
すべりおちるような気配であって、その下降
運動に抗して北と南の二本の塔は、全力を
あげて天に向かっている。その上下の緊張関係
は、ぼくにはバッハのオルガン音楽のように
思えたのです。そして自然に対してここでは
人間の意志が、600年の歳月をついやして自己
を主張し貫徹している ― 、そんな思いに、
ほとんど息のつまる思いがしたのでした。
これがドイツのゴシックなのか、とつぶやかず
にはおれませんでした。

その後大学町マールブルクに移って2年半を過ご
したのですが、マールブルクにはドイツで最初の
ゴシック建築のエリーザベト教会が町の中央に
立っています。春、夏には赤い石が明るく空に
聳え、秋から冬には壁に真白な霜がついて厳し
い相貌となる。毎日曜日この教会のやわらかな
鐘の音を聞いて起き、礼拝にも出かけました。
丸い石柱のあいだの席はいつも満員で、パイプ
オルガンの調べが、ときにはどよもすように、
ときにはせせらぎのように流れているのでした。

 Gotik [ゴーティック] f ゴシック
12世紀後半フランスにはじまり、ヨーロッパ
全体、とくにドイツに広がっていった美術様式
ですが、ゴシックの名称はずっとあとになって
からつけられたもので、当時の人々が自分たち
の建築や絵画をゴシックと自覚的に呼んでいた
わけではありません。イタリアの美術史家たち
が、昔の北方の蛮族ゴート族のやるようなこと、
という軽蔑侮蔑の意味をこめてこの名称を
つけたのです。しかし、これこそほんものの
ドイツの美術だ、と断言したのはゲーテでした。
残念ながらゲーテも間違っておりまして、
ゴシックはドイツ固有のものではなく、もとを
ただせばフランス、それもイル・ド・フランス
地方に生まれた様式でして、ゲーテが感激して
「ゴシックを知らぬイタリアやフランス人は
哀れなものだ」と叫んだシュトラースブルクの
ゴシック大聖堂を完成したのはドイツ人ですが、
最初にはじめたのはフランスの石工でありました。
イタリアだってゴシック美術はあったのです。

 Architektur [アルヒテクトゥーア] f 建築
ゴシックの中心をなすのはやはり建築です。それ
も教会建築がその中心です。建築技術が進歩して
高い会堂建築が可能になり、1144年に献堂された
サン・ドニの修道院がその第一号でした。技術が
円熟してできたのがパリ郊外のシャルトル、ランス、
アミアン;そしてパリ市内のノートル・ダーム・
ド・パリを知らぬ人はないでしょう。イギリスも
フランスから技術を学んでロンドンの名所ウェスト
ミンスター・アベイを造ります。ドイツは、
ゴシック様式の採用が実はかなり遅れたのです。
遅れましたが、やはりドイツらしく重厚なケルン、
レーゲンスブルクなどのすぐれた建築を生みました。
ゴシックはさらにイタリア、スペインにも採用され
て、近世がはじまろうとする時代に、キリスト教
ヨーロッパの統一的様式となりました。そして、
15、16世紀のころに次第にルネサンス様式にとって
かわられていきます。

 Malerei [マーレライ] f 絵画 重厚な壁の
ロマネスク教会では、大きな壁面を飾ったのは壁画
でしたが、建築技術が進んで高い塔ができ、主柱の
あいだに窓が大きく鋭く尖ってつくられ、壁画が
少なくなったゴシックの教会堂内部では、こんどは
ステンド・グラスが装飾美の主体となりました。
赤、青、黄、緑などのガラスを鉛のわくでつなぎ
合わせたステンド・グラスが、ゴシック教会の窓と
いう窓をおおい、堂内に神秘的な色と光の雰囲気を
つくり出しています。12、13世紀はこういうステンド
・グラス全盛で壁画がかえりみられませんでしたが、
14世紀にはたとえば市庁舎のような世俗建築にも
ゴシック様式が用いられるようになって、壁画が
復活します。聖画としてはイタリアの巨匠ジョットー
のものがすばらしい。パドゥアのアレーナ礼拝堂の
フレスコ画など、彼の傑作です。

 Plastik [プラスティック] f 彫刻 これも
フランスからはじまり、明るい人間像、聖像の彫刻
が教会を飾りました15世紀の半ば、すでにイタリア
では初期ルネサンスの彫刻(ドナテロなど)が花咲
きはじめたころ、北方ドイツは後期ゴシック彫刻の
全盛期を迎えました。リーメンシュナイダー、
ファイト・シュトスなどの彫刻は人類美術史上の
偉観といっていいでしょう。
    (3月号)   

             

 

 

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