ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。
この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。
史上最大のインフレ 成瀬 治 1923年といえば、わが国ではあの関東大震災 のあった年ですが、この同じ年に、大一次 世界大戦の傷痕が癒えぬドイツは、史上空前 のおそろしいインフレーションに見舞われま した。1918年の秋、敗戦とともに革命がおこ ってドイツ帝国が崩壊し、翌年社会民主党の Ebert を大統領とするヴァイマル共和国が発 足したことは、皆さんよくご存じでしょう。 しかし、生まれたばかりのドイツの民主主義 体制は、連合国側から大戦の単独責任を負わ され、ヴェルサイユ条約によって苛酷きわま る講和条約を押しつけられたため、早くも ゆりかごの中で致命的な打撃をこうむりまし た。Wilson の理想主義的な講和原則に望みを かけていたドイツ国民は、西欧民主主義諸国 の報復政策にいたく憤激したばかりでなく、 ヴァイマル政権の弱腰な態度にも失望し、 1920年3月 Berlin におこった右翼の「カップ 一揆」や、これを失敗に終わらせた労組の ゼネストが示すように、政情は極右と極左とに 分極化してゆく傾向をはっきり示したのです。 もっとも、降伏当時のドイツの通貨事情はまだ そんなに悪くはなく、物価は戦前の2倍ほどで これはフランスよりもましであり、その後いく ぶん物価騰貴はおこったにせよ、1921年5月 には政府の収支は均衡し、物価も安定するかに 見えました。 ところが、まさしくこの瞬間にドイツの財政は ひどい赤字に陥り、政府が紙幣を濫発しはじめ たため、5月から11月までの半年間に早くも 物価は3倍にはね上がりました。これは、懸案 になっていたドイツの賠償金額の決定をめぐ って連合国のあいだで続けられてきた議論が 同年4月のロンドン会議で落着し、総額1320 億金マルクという莫大な金の支払いを約束させ られたことによるのです。窮地に立った政府 は21年の末に翌年分の支払い猶予を求め、22年 の5月末にそれが認められたのに、インフレ は一向におさまらず、とりわけこの年の6月 24日、親西欧派の外相 Rathenau が暗殺され て以後、マルクは堰を切ったように暴落し始 めました。さらにこの事態を決定的に悪化さ せたのは、1923年1月、賠償義務の不履行を 口実にフランスが、ベルギーをかたらって、 ドイツ最大の炭鉱地帯 Ruhr の軍事占領を 強行したことです。この地方からの多額の 税収を失った政府が、「消極的抵抗」と称 して、国費支出のためむやみやたらに紙幣を 発行したため、為替相場は1922年11月の1ドル 対7000マルクが23年8月半ばにはさらに295万 マルク、秋になるとさらに加速的に暴落して 10月1日に1ドル対3億4500万マルク、11月 15日に2兆5200億マルク、11月末には何と 4兆2000億マルクにまでなりました。 このころ Heidelberg 大学に留学していた 哲学者の天野貞祐氏の回想録によれば、氏の 知人である哲学研究室の助手は、午後3時に 支給される規定の俸給を、会計課に頼んで午前 11時に貰い、受取るや否や直ちに生活必需品に 代えていた。けだし「数時間がマルクの価値を 何分の一かに減じてしまうことは当時決して 稀有でなかった」からだ、というのです。 また同年7月、 Berlin に留学中の小宮豊隆氏 は日記のなかで、先月の部屋代が17万6千マルク だったのに、下宿の主人の申出があって今月 から70万マルク払うことになったいきさつを 記したのち、こうつけ加えました。「もっとも ドイツ人から言えば、これは莫大な金額である には違いないが、しかしわれわれから言えば、 これは十円足らずの金にしか当らない。 その十円足らずの金で、日本に帰れば百円出 したって這入れそうもない、堂々たる部屋も 占領しているのである。考えて見ると、なんだか ドイツの人達に対して、ひどく申し訳のない 事をしているような気がする」と。その Berlin では、11月末になると実にパン1キロが4280億 マルク、バター1キロ5兆6000億マルク、市電 の切符1枚ですら1500億マルクもしたという のですから、ちょっと想像を絶してしまいます。 市長の報告書は、1922年についてさえ「多数の児童 は、幼児をも含め、一滴のミルクもとらないし、 学校へは暖かい朝食ぬきで行っている。学校での 昼食は、ひからびたパンかパンの上にぬるよう に潰された馬鈴薯かであった」と述べていました。 この大インフレも、11月半ばに政府が、土地・ 山林・建物などの不動産や企業を担保とする 新紙幣 Rentenmark を発行したのがきっかけ となって、ようやく鎮まってゆくのですが、 ドイツの中産階級と勤労者がこれによって決定 的な打撃を受けたこと、その反面、大ブル ジョワジーや大地主が、債務の軽減やドルや ポンドを買い込むなどの投機事業でぼろ儲け をしたことは、ドイツのその後の運命に深い 影響を残しました。共産党が Sachsen と Thueringen で社共連合政権を樹立するという 情勢のもとに右翼の拠点の Muenchen でナチス の一隊を率いる若い Hitler が Ludendorff 将軍と結んで一揆を試みたのは、まさにその 11月上旬のことだったのです。 (4月号) ホルバイン 小塩 節 ホルバインはスイスのバーゼルに住んで 活躍した画家でした。生きていたのが Duerer デューラーと同じころ、16世紀の人 です。バーゼルという町はドイツ、フラン ス、スイス3国の相接する国境にあるので すが、静かなよいところです。ミュンスタ ー大教会の塔にのぼると、眼下を悠然とラ イン河が右手のスイスから左手のドイツ・ フランス国境にむかって大きく弧をなし て流れている。遠く尖塔が見えるのは、フ ライブルクのゴシックの教会。そのうしろ に黒々と連なっているのがシュヴァルツヴ ァルトです。ここバーゼルには今世紀最大 の神学者カール・バルトがいましたし、詩 人ヘルマン・ヘッセも少年時代をここで送 っています。―このバーゼルBasel の市 立美術館で、ぽくは十数年前ですが、はじ めてホルバインの『十字架からおろされた キリスト』の絵を見ました。異様に横に細 長いもので、横たわるキリストの横顔は水 死人のようにみじめな相貌でした。これが 死というものか、ヨーロッパ思想の中心の ひとつは「死」だな、と思ったものでした。 どこだったっけ。どこで読んだんだっけ。 ホルバインの絵を見つめていると、いつか だいぶ前に読んだドストエフスキーの言葉 がふと心に浮かんできました。「あの絵を 見ていると、信仰をおとしてしまう人もあ るにちがいない」という言葉をどこかで読 んだのです。あれは、いったいどこだった っけ。そうつぶやきながら宿に帰り、しば らくぼんやりしておりました。ホルバイン という人は、今から450年も前の画家です。 しかし、なんとおそろしい画家であったこ とでしょう。いや、当時のドイツは、なん と多くのおそろしい彫刻家・画家をつくり 出したことでしょう。ぼくは少年時代に聞 かされていました。フランスは美術の国で あるがドイツは音楽と詩と哲学の国であっ て、造型美術はダメな国である、と。そう だとばかり思っていたら、とんでもないこ とで、ドイツ・ルネッサンスと言われる後 期ゴシックの時代の彫刻家、クラフト、ブ リュッゲマン、そしてティルマン・リーメ ンシュナイダーたち。そして画家にはルー カス・クラーナハ、アルトドルファー、グ リューネヴァルト、それにデューラー、ホ ルバインらがいるのです。なかでもホルバ インを「おそろしい」と思うのは、きっと ぼくの中で、かつて読んだドストエフスキー の言葉が、バーゼルの絵にこびりついてい ておそろしいのに違いありません。 やがてぼくは思い出しました。それは 『白痴』の中の一場面でした。ムイシュキ ン公爵。この人は善と愛をこの地上で貫ぬ こうとするために、白痴のように生をおえ ざるをえない。この世界では善は結局負け るのであり、純粋な愛はありえないとい う、作者の悲痛な二ヒリズムがつくりだし た人物像なのですが、このムイシュキンが 知り合ったロシア青年ラゴージン。この人 の客間にはいくつもの絵がかかっています が、そのなかに、非常に細長い、奇妙な形 をした一点の絵があるのです。それが『十 字架からおろされたばかりの救世主』を描 いたハンス・ホルバインの模写なのです。 公爵がこの絵についてそっけないことを言 うので、ラゴージンはいらいらします。そ れは彼の内心の最大の問題、神の問題がこ の絵にこめられているからでした。自然、 そして死の力はキリストさえかなわないの ではなかろうか。このキリストは美しくな ぞまったくない。あのような十字架の苦し みの後の人の死骸はまさにこのようであろ う。怖ろしいまでに鞭うたれて腫(は)れあが り、ものすごくふくれあがっている血みど ろな打ち身を見せて、眼は見ひらいたまま 瞳はやぶにらみになっている。大きく見ひ らいた白眼(しろめ)は死人らしく、どんよりして いる―、そういう絵なのです。自然律は すべてに勝つ。おそろしいほどのニヒルな リアリズムです。 公爵は「あの絵!」と叫びます。「そう だ、あの絵を見ていると信仰を失う人さえ あるにちがいない。」人間は、この世にお いて人間である限り、そのままでは神を信 ずることができないのです。 宗教改革の嵐が吹きはじめたスイスで、 旧教からプロテスタントになったホルバイ ンはかくもおそろしい絵をかいた人でし た。ホルバインというとき、ぼくらはふつ う子ハンス・ホルバインのことをさしま す。彼 Hans Holbein[ホルバイン]は15世 紀の末1497年に、アウクスブルクの有名な 同名の画匠ハンス・ホルバインの次男とし て生まれ、その工房で画作の訓練を受け、 1515年、ルターが宗教改革ののろしをあげ た直前バーゼルに行きます。当時はパスポ ートなしでドイツからスイスに行くことが できました。そして2年後にはそこ Base1 の画家組合に Meister として登録されま す。上記の十字架の絵をかいたのち1526年 にイギリスを訪ね、数年のちロンドンに永 住。英国王ヘンリー8世の宮廷画家となっ て一生をおえました(1543年歿)。彼の名 声を基礎づけたのは数多い、リアリスティ ックな肖像画でした。と同時に版画もよく し、バーゼルの最後のころに作った本版画 の連作「死の踊り」は、ヨーロッパ版画の 最大名作とされています。デューラーと並 んで当時のドイツが世界におくった最大の 画家だったと申せます。しかし、ぼくにと っては彼はあの十字架像を画いたホルバイ ンであり続けるでしょう。神は在るのか、 と問いかけ続けるでありましょう。 (4月号)