基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第25巻第1号−第12号(昭和49年5月−昭和50年4月)

デューラー
          梅津忠雄

グーテンベルク (Johann Gutenberg) が印刷術
を発明してから半世紀ほどの間 ― 十五世紀
後半 ― に出版された本を「古版本
 (Inkunabel)」と呼ぶことになっています。
1972年のこと、バーゼル大学図書館でこれら
古版本に出ている挿絵の展覧会がありました。
私が旅の道すがらこれにめぐりあった幸福な
偶然をよろこんだのは、バーゼルにゆかりの
深い若き日のアルブレヒト・デューラー
(Albrecht Duerer, 1471-1582) の作品も見ら
れるかも知れないと思ったからです。

そもそも、ヨーロッパでは本の中に挿絵を入
れる習慣は古く、写本絵 (Miniatur Buchmalerei)
もそういうものでした。これは画家がひと筆
ひと筆ていねいに手描きする高価なものであり、
したがって庶民の手の届くところにはなく、
大教会・王侯貴族・大商人の宝物でありました。
しかし活版印刷の時代が来ると、量産可能な
木版画が挿絵に使われるようになり、美術が
庶民のものとなったのです。木版技術がめざ
ましく発達した時代と重なったという恵まれ
た事情もありました。

デューラー時代の版画 (Graphik) と言えば、
木版画 (Holzschnitt) と彫刻銅版画 (腐食銅
版画 Radierung と区別して Kupferstich と呼
ばれます) でありました。画家の仕事は版下絵
を作ることで、それを版画に完成させるのは
彫師 (Formschneider) という特殊な職業の人
でありました。

ドイツではデューラーより先にマルティン・
ショーンガウアー (Martin Schongauer,1491没)
が現れて、まことに美しい銅版画をたくさん
残しました。木版画で彼に劣らぬ働きをした
人は、ほかならぬデューラーであります。
デューラーの版下絵の持味を正確に生かした
木版画を作って見せようとしたことから、
彫師の技術も長足の進歩を遂げました。
デューラーなくしてドイツ木版画の歴史は
なかったと言ってよいほどです。木版画は
またドイツ芸術のお家芸になりました。
一体にイタリアで版画に手を染めるのは、
画家として大成の見込のない二流・三流の
連中でした(例外はありますが)。ところが、
ドイツでは大家も好んで版画製作に従事し、
すぐれた作品を残しているのです。デューラー
は押しも押されもしない大芸術家になって
からも、相変わらず版画に情熱を注ぎこんで
いました。これは典型的にドイツ的な現象で
ありました。

このドイツ的な現象を風土から考えてみる
のも面白いでしょう。こんな情景を想像し
ながら。 ― 昼なお暗いドイツの冬に、
デューラーは小さなランプの下で手探る
ように、こつこつと版下絵を描く。できあ
がると、これを意気の合った彫師に渡す。
彫師もまた貧しいランプをとぼし、版木の上
にかがみこんで彫刻刀を動かす。版画はいわば
Nachtarbeit (夜の仕事) なのです。

ドイツ人たちは、高い精神性を表現しうる
までに発達した木版画を、これこそドイツが
世界に誇りうる唯一の芸術であると言わん
ばかりに愛しました。デューラーのパトロン
(Maezen) であったマクシミリアン皇帝(在位
1493-1519)が、生涯の記念物を残したいと
思いながら、芸術家たちに作らせたのは、
壮大な王宮でも、教会建築でもなく、幾つか
の木版画連作でありました。紙の上に印刷
された芸術作品が、石材で構築された記念物
に代わりうるものだという考え方は、まさに
ドイツ的です。

さて、バーゼル時代の若きデューラーを回顧
することにしましょう。ニュルンベルクの
金細工師 (Goldschmied) の子であった
デューラーは、少年時代にまず父の仕事を
身につけ、十五歳から同郷の画家ヴォール
ゲムート (Michael Wolgemut) の徒弟に
なって三年間修業し、それを終えると
1490年4月から 1494年5月まで遍歴徒弟
(Geselle) として旅に出ました。その間
しばらくバーゼルに滞在したことは、彼が
同地の印刷兼出版業者に協力して盛んに描い
た木版画によって知られるのです。折よく
バーゼルの挿絵展で見られ私を狂喜させた
のも、この種の仕事です。

デューラーは古代ローマ詩人テレンティウス
(Terentius, ドイツ語では Terenz, 紀元前
195頃−159) の喜劇集の挿絵のために
たくさんの版下絵を用意しましたが、この
木版画は未完成に終わってしまいました。
それにはこんなエピソードがあります。
この本をバーゼルで出そうとした印刷出版
業者はアメルバッハ (Johann Amerbach) です。
ところが、リヨンのトレクセル(Johann
Trechsel)は一足早く1493年8月29日に同類
の本を出版してしまいました。アメルバッハ
は出版をあきらめ、デューラーが着手した
木版画挿絵も不要になったのです。13枚だけが
彫版され(そのうちの6枚は版木が残って
います)、実に126枚の版下絵が版木に貼った
ままで放置されました。それらの版木が保存
されています。

その一年前、1492年8月8日にバーゼルで
聖ヒエロニムス書簡集が出版されていますが、
デューラーはそのときすでに同地に来ていて、
この本の口絵として木版画《書斎における
聖ヒエロニムス》を作っています。この木版
も保存されていて、その裏を見ると「ニュルン
ベルクのアルブレヒト・デューラー (Albrecht
 Duerer von noermergk)」と署名されています。
この木版画の特有の価値は、これがデューラー
の木版画の最初のものであるということ、
そして、ドイツ木版画の新しい歴史がここから
はじまるということに係っているのであります。
    (2月号)



謝らない日本人
           小塩 節

ひとりの人間についてと同じように、あ
る国民性も―般化して「...国人というもの
は」というふうに言うことは、つねに誤り
をふくみがちなことですから、できるだけ
避けるべきですが、それでも一般的にいっ
てアメリカ人はフランクだし、南欧ラテン
系の人は陽気であり、ドイツ人は少し堅苦
しい、きまじめだ、というような大体の国
民性のようなものがあります。

ぼくはドイツとドイツ語が好きですが、
でも気に入らないところもあります。その
ひとつをお話させてください。それはドイ
ツ人が「謝(あやま)る」ことをしたがらない、
いや、しない人間だということです。そし
てそれには深い理由(わけ)があるのです。たと
えば国鉄の急行列車が遅れると、プラット
フォームで極寒の気にさらされて待ってい
るお客へのアナウンスがあります:"Der
D-Zug nach Hamburg hat 2 Stunden
Verspaetung ! Achtung, bitte !" 「2時間
おくれます」。たったそれだけしか言いま
せん。それでぼくは以前あるドイツの町で
駅長に詰め寄ったことがあります。すると
その駅長は目をまんまるにして、なぜわた
しが謝らなくちゃいけませんか。わたしは
わたしの責任を果たしているだけだ。もし
謝ったら、自分が個人として弁償しなく
てはならなくなる。そのような権利も責任
もない、と言うのでした。なるほどねえ。

さて、昨年のある夏の日にミュンヒェン
からボンまでルフト・ハンザ機で飛びまし
た。ケルン・ボン空港で手荷物の引き渡しを
待っていると、ぼくのトランクだけがいっ
かな出てきません。最近のもののように立
派なのでなく十数年前に買った布製のボロ
ッチイものですが、毎年夏のヨーロッパ旅
行に使っているなじみのもの。鍵もついて
いますが、日本人のトランクというと抜き
とりをやるので有名な(このとき「有名な」
は beruehmt でも bekannt でもなく、
beruechtigt[ベリュヒティヒト]「悪名高い」
と言います)ロンドンのヒーススロー空港
で何度も鍵をつぶされた、という歴戦のト
ランクなのです。しかも、その中にはアメ
リカや東独で苦労して集めた研究資料がい
っぱいはいっでいたのです。なくなった
ら、泣くに泣けません。

空港の係官に申し立てると、すぐルフト
・ハンザ事務所に連れて行かれ、そこにい
た巨大なセクレタリーに事情を言わされ、
書類が作られました。生年月日、氏名、パ
スポート・ナンバー、住所、そしてトランク
の大きさ、色、重さ、内容の詳細と金額に
換算した場合の額、本の名…まるでおまわ
りさんに訊問されているみたいです。そし
ておしまいにタイプを打った書類にサイン
をさせられます。サインをする前によく読
むと、「これをもって当社が弁償の義務を
負うことを決定したわけではない」という
一項もある。周到なものです。サインをす
ると、連絡先はどこかという。そんなとこ
ろはないし、トランクのためボンに泊らな
くてはならぬなら、ホテルを世話してくだ
さいと申しましたら、「当方は Hotelin-
formation ではない。あちらの電話を使っ
て、自分で」と言うではありませんか。し
かもですよ、トランクが出てきたら連絡す
るから取りに来い、という。ボン市内まで
往復80マルク(9000円)をどうしてぼくが出
さなくてはいけないのでしょう。

ここ十年で欧州一の金持になったドイツ
の悪い面を一身にあらわしているかのよう
な、この超ミニ、ノーブラ、スケスケのセ
クレタリーはタバコをやたらにふかしなが
ら、時間だ、とつぶやくとハンドバッグを
もってサッサと帰っていってしまいまし
た。しようがないので2階のカウンターに
行くと中年の男がいます。やはりホテルや
道を訊くのは女はダメ。男でなくては。フ
ェミニストのぼくだけどそれは洋の東西を
とわず骨身にこたえて知らされています。
その男は、「そりゃお気の毒。ホテルのお
世話ぐらいルフト・ハンザでさせていただ
きます」、そう言って親切に世話をしてく
れました。

さてそれからホテルで待つこと丸一日。
着がえのシャツ、ねまきはむろん、櫛もひ
げそりも全部トランクの中なので、髭の濃
いぼくは汗くさいシャツ姿の熊五郎という
ところ。ホテルのフロントから荷物が届き
ましたという電話にとびあがってよろこび
ましたが、届けてきたのはルフト・ハンザ
に頼まれたタクシーで、すぐ帰ってしまっ
たのでした。そこで、着がえをし、ひげを
剃ってから会社に電話をしました。一言詫
びたらどんなものか、と。その返事はいか
にもドイツらしい typisch deutsch でし
た:

"Seien Sie froh, dass der Koffer nicht
nach Moskau oder nach Afrika ging,
sondern da ist !" 「トランクがモスクワや
アフリカに行かずに、戻って来たことをお
よろこびなさい」。

そしてやはり、なぜわたしが sich ent-
schuldigen 「謝る」必要があるのでしょう
か、と反問してくるのでした: "Wieso soll
ich mich entschuldigen ?" これには呆然
として、それでもやっと切り返したぼくの
言葉は "Ich werde mir gerichtliche
Schritte vorbehalten." 「法的手段に訴え
る権利を保留します」という、これまたい
かにもドイツ人的な、ドイツで覚えた言葉
でありました。−なんでも謝り、済みま
せんと言えば済んでしまう日本の正反対な
のです。ぼくらは少し「済みません」と言
い過ぎるかもしれませんね。タバコを買い
にお店にはいるときにまず「済みません」
と言う。お店の人はお釣りをくれるときに
「済みません」と言う。それをうけとるこ
ちらも同じくそう言ってお店を出る。−
もっともこれは心理を深く考えれば、オー
トマティックの機械を使わないで人手をわ
ずらわすので「済まない」と言うのであり、
お待たせして申しわけない、とねぎらい、
謝るのでしょう。やさしい日本の心情で
す。でも、ほんとうに「済みません」でこ
とが済むかどうか、もっと深刻な場合は問
題でしょう。これは、ここで取り上げるス
ペースがないので別の機会に考えましょ
う。

「ドイツ人は謝らない」というテーゼを
立てると、ドイツ人はすぐ反論をします。
「そんなことはない。道をきくときも、電
車やエレベーターで他人のからだにちょっ
とでもふれたら、ドイツ人はすぐ謝る。日
本人はぜったいに謝らない。よや、満員電
車の日本人はみんな痴漢だ」。なるほどそ
う言われればそうですね。痴漠じゃあない
けれど、過密なわが国の乗物では朝から晩
まで、謝っていなくてはなりません。そん
なことはできない相談です。

しかし、やっぱりぼくは思うのです。乗
物でドイツ入が謝るのは弁償をする必要が
ないからではないでしょうか。もしお金を
払わなくてはいけなくなったら、彼らはけ
っして Entschuldigen Sie!「ごめんなさ
い」とは言わぬに違いありません。

もうずいぶん前のことですがミュンヒェ
ンに留学していたある日本人学生が横断歩
道を渡っていて酔っぱらい運転にはねられ
てしまいました。病院に運びこまれた学生
は最後の息をひきとる直前に一瞬意識をと
り戻してあたりを見まわし、「ゴメンナサ
イ。Entschuldigung![エントシュルディグン
グ]」そのひとことを残して亡くなりまし
た。ベッドのかたわらには Polizist m[ポ
リツィスト]とKrankenschwester f[クラ
ンケン・シュヴェスター]「看護婦さん」だけ
がおりました。

裁判が行われ、裁判官は判決文の中で
「この日本人は済まぬと言って死んだ。つ
まり自分にSchuld f[シュルト]『罪』があ
ると認めて死んだ。だからent-schuld-igen
という言葉を用いたのである。被告人は無
罪。弁償の必要なし」と申し渡しました。
呆れ返ったのは在留日本人仲間です。「ゴ
メンナサイ」というのは,母国にのこした
父母に先立つ不孝を詫び、みなさんにいろ
いろご迷惑をおかけしたことに対して済ま
ないと言ったのであって、罪は自分にある
なんていう意味じゃないのだ。そういう上
告文を出しまして、裁判所で認められるに
はずいぶん時間がかかったものでありまし
た一一。ああ、心やさしい日本人よ!
    (2月号)   

             

 

 

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