基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第25巻第1号−第12号(昭和49年5月−昭和50年4月)

フリードリヒ大王と水車屋
            成瀬 治

プロイセン王フリードリヒ2世(大王)
Friedrich der Grosse が啓蒙専制君主の模
範と仰がれたことは周知であり、前回にの
べた王のユダヤ人政策も、「各人おのが流
儀で天国に入るべし」という全くリベラル
な宗教観のあらわれといえますが、こんど
はその大王がいわば「正義の番人」として、
一介の貧しい水車屋の権利を守ってやった
有名な事件についてお話ししましょう。プ
ロイセン王国の心臓 Brandenburg の東部
Neumark 地方に、Christian Arnold と
いう男が、オーデル河に注ぐ流れに沿って
ひとつの水車小屋をもち、脱穀・製粉業を
いとなんでいました。この小屋は祖父いら
い代々うけついできたもので、彼はその営
業権を附近の領主 Schmettau 伯から永代
貸借のかたちで借りうけていたのです。
Arnold は律儀に働き、領主への賃借料と
して、毎年きまった額の金と穀物をきちん
と支払っておりました。

ところが1770年に、隣に領地をもつ
Gersdorff という貴族が、水車小屋の上流
から水を引いて鯉の養殖を始めたため、
Arnold は水不足で大きな損害をこうむり、
心ならずも賃借料を滞らせることとなりま
した。待ち切れなくなった Schmettau が
Arnold 夫婦を相手どって、附近の町 Pom-
merzig にあった領主裁判所に訴え出ると、
たちまち Arnold は敗訴し、水車小屋は
1778年の9月、競売に付されてしまいまし
た。 Gersdorff はこの地区の貴族のあいだ
でも頭株で、郡長 (Landrat) という要職
をおびていたこともあり、さなきだに領主
裁判所はその性格上、当然貴族側に加担す
るものであってみれば、結果は目に見えて
いたともいえましょう。しかし Arnold 夫
婦は泣寝入りしませんでした。勇敢にも逆
に Schmettau を Kuestrin にあるノイマ
ルク地方裁判所に訴え、損害賠償を請求し
たのです。そして、ここでもまた敗れる
と、こんどは二度までポツダムに出かけて
いって、フリードリヒ大王に直訴をこころ
みました。

再度の直訴に心をうごかされた王は、1779
年9月の勅令で Arnold の救済を命じ、
これにもとづいて Arnold は、こんどは
Gersdorff を地方裁判所にあっ絶えました。し
かし残念なことに、<Regierung>と当時
のひとが呼んでいたプロイセン諸州の地方
裁判所は、これまた全く封建的なユンカー
領主の勢力下に置かれており、公正な審理
はのぞむべくもありません。 Arnold のあ
らゆる抗弁にもかかわらず、Gersdorff 側
は、問題の養鯉池は新たに造ったものでは
なく、かれの祖先が Schmettau の祖先か
ら1556年にその所有権を認められた古い池
を復旧したものにすぎないとか、問題の河
川は私有物である以上、その所有者は他人
の不利益になると否とを問わずこれを利用
しうるとかいった勝手千万な理屈を並べ、
とうとうその主張が認められてしまったの
です。

いまや事件は大詰を迎えます。三度の敗
訴にもめげず Arnold が控訴した高等裁判
所が、同年12月8日、またしても Gersdorff
勝訴の判決を下したとき、この判決文の写
しを読んだフリードリヒ大王は怒りに青ざ
め、直ちに首席司法大臣と三名の高等裁判
所判事を王宮に呼びつけて、はげしい叱責
の言葉をあびせました。その言葉は遂一記
録にとどめられ、数日後には、全国の裁判
所への告諭という意昧でベルリンの新聞に
掲載されたのですが、そのなかには次のよ
うな「進歩的」発言が見られます。「国王
は、万人に対して、貴賤富貴を問わず迅速
に裁判がおこなわれ、誰であろうと、身分
にかかわりなく、すべての臣民に対し、首尾
一貫した、偏りのない法律が適用されるこ
とを望む」「けだし、もっとも賤しい農民、
それどころか乞食でさえも、国王と同じく
一個の人間であり」「法律の前では万人が
平等であって、王侯が農民を訴えようと、
農民が王侯を訴えようと...裁判所は身分
の如何ににかかわらず、正義のみによって裁
きを行うべきである。」

こうして、この劇的な事件は、首席司法
大臣が即日罷免されたほか関係した判事た
ちも相応の処分をうけ、Arnoldは目出度
く水車小屋をとり戻し、郡長 Gersdorff の
養鯉池はとりこわされるという形で落着し
ました。上のような王の言辞を額面どおり
受取るかは別としても、たしかにそこには
啓蒙君主としての王の真面目がよく現われ
ていたといってよいでしょう。国王に対す
る臣民の直訴と、これを正当と認めた国王
の大権による裁判干渉―これは Macht‐
spruch と呼ばれていました―は、まだ
ユンカー領主の利害によって左右されてい
た当時のプロイセン司法界の現状のもとで
は、たしかに司法の公正をまもる役割を果
しえたのです。しかし、このようなやり方
の背後に、国主を全臣民の家父長と見なす
ような、後見的君主政治の理念がはたらい
ていたことも見逃せません。そして、司法
権の独立を許さぬこうした後見行政の原理
こそが、「啓蒙専制主義」なるものの歴史
的特質をなしていたのでありました。
    (1月号) 



ドイツ美術の歴史(2)
            小塩 節

前回ご紹介したカロリング朝に続くのが
オットー朝です。西暦第十世紀をはさんで
の騎士道文化のはじまりのころ、ようやく
ドイツ的な美術が光芒ゆたかに現れます。
それはみなさんもご存知の、聖書にいれら
れている細密画であり、金銀細工、それから
祭壇画などです。

ここでは簡単にそのことだけで、すぐ次の
時期に移りましょう。ロマネスク時代です。
Romanik f [ロマーニック] といいます。
Rimantik f [ロマンティック] とまぎらわ
しいのでまちがえないようにしてください。

ロマネスク美術は、語源的にいうと「ローク
ふう」ということですが、単純にローマの
古典美術を継承したのではけっしてありま
せんで、もっと東方のビザンチンの文化を
もとり入れており、なにより大事なポイント
としては、封建制度にもとづく西ヨーロッパ
の騎士社会が完成を見、キリスト教が完全に
文化的ヘゲモニーをにぎったうえで成り立っ
た点にあります。つまり、ロマネスクは、
11世紀前後の西ヨーロッパのキリスト教美術
である、と申せます。

ですからこの期の美術の中心は教会堂です。
しかも石造の重厚で堂々とした会堂建築です。
重い石の天井を支えるために、なんとも重々
しく部厚い石の壁がつくられ、水平的な安定
感のつよい建築がつくられました。シュパイ
アー、ヴォルムスなどの諸教会堂の写真を
ごらんになると、なるほどと思っていただけ
ると思います。

さらにロマネスクの教会堂は、柱や外壁の
いたるところに彫刻を施しました。それは
彫刻で建物を飾るだけでなく、彫刻の図像に
よって神の国の姿をありありと民衆に伝え
ようと考えたからなのです。

会堂の内側もそうです。なにしろ窓は小さく、
壁が大きいので、その壁を飾りもし信仰心を
つよめる意味でも、壁画を多く施しました。
この時期の壁画はフレスコ画です。南ドイツ
の、ボーデン湖にあるライヒェナウの島にある
教会の壁画が、全ヨーロッパでも最初の、芸術
的価値の高いものです。ここから南フランスへ
美術的な伝統が広がっていきます。作家の井上
靖氏が南フランスのロマネスクの教会堂をたずね
て歩いた文章がありますが、なにげない筆緻で
みごとにロマネスクの雰囲気を伝えています。
いまだに幼く、ぎこちないような重い建築の
内側には、幼稚といいたいような壁画がいたる
ところにある。しかし、いかにも素朴な生命感
と信仰心にあふれたものだ、と思います。法隆寺
のみ仏のような感じ、と言ってよいかもしれま
せん。

ところでロマネスクとその次の時期のゴシック
の教会堂の違いは、素人ふうに言えば、窓の形
でごく簡単に見わけることができます。ロマネスク
のそれは写真でごらんくださるとわかりますように、
かなり小さくて上部がまるくなっていますね
ゴシックの窓は鋭く尖っています。これは建築
技術と関係があるわけですが、窓でわかる違い
というのがおもしろいですね。

このロマネスク美術を最盛期にもたらしたのは
シュタウフェン王朝時代です。むろんゴシック
美術の動きも始まっておりました。ゲーテが
学んだシュトラースブルクの大教会やケルンの
巨大なドームの建築も始まっています。その
なかでロマネスクのマインツ、ヴォルムス、
シュパイアー、バンベルク、リンブルクなどの
堂々とした会堂が長年月をかけて完成します。
それは十字軍がくり返し行われ、ヨーロッパ各
地方の騎士たちがたがいに接触をもち、言語的
文化的にも深い影響を受けあい、経済的文化的
に騎士階級がヨーロッパをおさえていく時代
でした。1184年にはバルバロッサ王を中心として
ドイツの騎士たちがマインツに集まって大集会
を開いたりいたします。そのような時期に完成
したロマネスク美術は、教会堂を中心として、
壁画、彫刻のほかに前期からひきついでさらに
せんさいを加えた金銀細工、聖書の挿話、壁画
などみごとな美の世界をつくり出していまして、
どうして中世が暗黒の時代といわれるのか。美術
の世界では少なくとも暗黒のがけりひとつすら
ない、と思わずにはいられません。

ヨーロッパを旅して、ああ、石の教会堂ばっかり
見せられちゃっていやだなとおっしゃる方が非常
に多くあります。そんな感想を持つということは
たいへん残念なことでありまして、文化の流れを、
美術彫刻の面からもうんとたのしんでいただき
たいものだと、つくづく思います。
    (1月号)   

             

 

 

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