基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第25巻第1号−第12号(昭和49年5月−昭和50年4月)

啓蒙主義とユダヤ人
            成瀬 治

中世以来ヨーロッパのキリスト教社会の
内部で、ユダヤ人が公的権利を剥奪された
一種の「賎民」と見なされ、さまざまな差別
と迫害に苦しんできたことは局知のとおり
です。教皇庁をはじめ中世のカトリック教
会当局は、教会内の異端をきびしく禁圧し
た反面、ユダヤ人を強制的に改宗すること
にはそれほど熱意を示さず、むしろかれら
を都市内の一定地区に隔離して(ちなみに
ゲットー Ghettoという言葉は16世紀初頭
ヴェネチアで生まれます)おく方針をとっ
ていますが、それは、土地の取得を原則上
みとめられぬ「よそ者」としてのユダヤ人
が、商人や金融業者として貨幣をたくわえ
るにつれ、教会自体がかれらに財政面で依
存するようになったためでもありました。
この隔離政策は。中世ドイツの皇帝や諸侯
によってもとられ、ユダヤ人は君主の直轄
不自由民として保護をうけるかわりに、高
い税金(Judensteuer)を支払う義務を負わ
されました。しかしその反面、キリスト教
徒には禁止されている高利の金貸し(公式
には43%あまりだが、実際はもっと高率)
をいとなむ「特権」を有したかれらは、し
だいに国民各層のはげしい憎悪にさらさ
れ、14世紀には例の黒死病流行の責任をお
しつけられるなど、宗教的・経済的理由か
ら度々ひどい迫害(Pogrom)をうけていま
す。それによってドイツを追われたユダヤ
人は多くポーランドに逃げ込んだので、中
世末いらい、ドイツ語にポーランド語やヘ
ブライ語が混った独特なユダヤ人ドイツ語
(Jiddisch)が形成されて、長らく全ヨーロ
ッパで用いられるようになりました。

宗教改革者ルターは、利子の徴収にはげ
しい非難を浴びせ、商業よりも農業と手工
業をすすめたので、ルター主義の諸領域で
は、排他的なギルド組織の強化も加わっ
て、ユダヤ人の経済活動はいちじるしく制
限されました。しかし全体として、政治的
分裂の甚だしいドイツの国家体制がユダヤ
人の生存に有利に作用したことも見逃せ
ず、また財政的な理由から一部の金持のユ
ダヤ人が君主の宮廷と密接な関係を結ぶこ
とは、重商主義の時代になるといっそう目
立ってきます。同じ新教でも、カルヴィン
主義のほうは、商業・金融に対する積極的
な姿勢からも、ユダヤ人の合理的な経済活
動にずっと寛大な態度をとり、ハンブルク
のようにオランダやイギリスとさかんに通
商していた商業都市では、早くも1612年に
ユダヤ人の市民権が承認されました。また
Brandenburg-Preussen では、1613年いら
い Hohenzollern 家がカルヴィン主義に転
向したこともあって、大選帝侯が亡命ユグ
ノーを大量に迎え入れたのと同じ実利主義
から、ユダヤ人の商人に寛大な政策がとら
れた事実も注目すべきでしょう。啓蒙君主
の典型であるフリードリヒ大王にいたって
は、1750年の特許状で、帰化ユダヤ人にド
イツ市民身分と殆ど同等の経済活動を許
し、とくにポーランド分割で獲得した西プ
ロイセン州などでは、かれらにあらゆる職
業への門戸を開きました。およそ「啓蒙的
絶対主義」なるものが、富国強兵の見地よ
りする国家的功利主義にほかならない以
上、同様なユダヤ人寛容政策がカトリック
国家オーストリアの啓蒙君主ヨーゼフ2世
などに見られても、あやしむに当りません。

こうして18世紀の後半には、ドイツのユ
ダヤ人社会にも財産と教養ある市民がしだ
いに現われてきましたが、そのさい、専制
政治を批判する市民的な啓蒙思想の普及
が、宗教や人種による人間の差別を撤廃し
ようというその人道主義から、ユダヤ人の
解放に大きく貢献したことを忘れてはなり
ますまい。この努力は、しかしキリスト教
とユダヤ教の双方における「啓蒙」が合流す
るときにはじめて実を結ん
だのであり、それが最初に
はっきり示されたのはベル
リンにおいてでした。フリ
ードリヒ大王と同時代の
すぐれたユダヤ人 Moses
Mendelssohn(1729―86)
は、プロイセンの隣国Des-
sau に生まれ、1743年ベル
リンに移って、裕福なユダ
ヤ人実業家 Bernhard の援
助をうけつつ学問をつみま
したが、啓蒙思想の影響の
もとにユダヤ教の合理的解
釈をこころみたかれを、ベ
ルリンの知識人社会に同志
として迎え入れたのは、
Lessing, Nicolai という二
人のドイツ啓蒙主義者で
す。レッシングは、メンデ
ルスゾーンの処女作『哲学
対話』(1755)を刊行したほ
か、とくに戯曲『賢者ナー
タン』の主人公においてこ
の高潔なユダヤ人の姿を長
く文学史にとどめ、ニコラーイは≪All-
gemeine deutsche Bibliothek≫(1765-
92)などの啓蒙的ジャーナリズムの編集に
メンデルスゾーンの協力を求めました。こ
こにユダヤ人社会のドイツ文化への融合の
道が開かれ、18世紀末から19世紀初のベル
リン社交界には、Henriette Herz, Rahel
Levin Varnhagen, Dorothea Veit とい
った才色兼備のユダヤ婦人が活躍するよう
になり、初期ロマン主義文学の開花に貢献
しますが、なかでも Friedrich Schlegel の
妻として有名なドロテーア・ファイトこそ
は、ほかならぬメンデルスゾーンの娘だっ
たのです。
    (12月号)



ニュルンベルクの幼子イエズスの市
                横川文雄

12月の冬の夜空を背景にして、中世以来由緒のある
聖堂 Frauenkirche [フラウエンキルヒェ] が柔ら
かい照明を浴びて仄かに浮び上る。この聖堂の前の
広場では、毎年クリスマスを旬日の後にひかえた
待降節 Advent [アドヴェント] (12月3日から24日
まで) のあいだ、Nuernberg [ニュルンベルク] 名物
の一つ、幼子イエズスの市 Christkindlesmarkt
 [クリストキンドレスマルクト] が開かれ、幻想的
な光りと色の光景が繰り広げられる。幼子イエズス
は、中世の女子修道会で崇敬の対象とされてから、
サンタクロースと並んで、クリスマスに子供たちの
ために贈物をもってきてくれるといわれてきた。

屋台店にところせましと並べられた商品に子供たちの
眼が耀やく。だが、その品物のどれを手に取ってみて
も、みな安ものばかり。種々雑多な品を売る浅草の
仲見世に似たこの市に出かけてゆく者を笑う人もいる
が、やはり毎年何千、何万という見物人が押しかけて
くる。とにかく待降節の期間に、この幼子イエズスの
市を訪れて、その年の締めくくりをしようと考えるのだ。
なかには、貸切りのバスで乗り込んでくる団体もある
という。日本で大晦日の夜、除夜の鐘の音に耳を傾け、
そのあとで初詣にでかけないと気がすまない人たちの
心に通ずるものがある。

フラウエンキルヒェ前の広場には、キリスト降誕を
あらわす Krippe [クリッペ] を中心にして、紅白の
天幕を張り、幔幕をめぐらした夜店がずらりと並び、
名物の焼きソーセージを売る屋台からのおいしそう
な匂い、木炭の煙りが一帯に漂って独特の雰囲気を
かもし出している。こんなに大勢の人たちが集まる
からといって、ここでなにか格別のものが買えると
いうのではない。日本のように全国各地の名産品が
なんでも東京の百貨店で入手できるといった考えを
ドイツの人たちは持ち合わせていないようである。
ここの夜店でなければお目にかかれない、しかも安い
品物をみようとぶらっと散策にでかけ、買物を心から
楽しんでいるのだ。クッキー類、クリスマスの装飾に
使う金銅箔の天使 (Rauschgoldengel)、金銀の星飾り、
ロウソク類といったものが陳列されている。また、
乾スモモの実に針金を通して手脚を自由に曲げられる
ように拵えられた男女の人形 (Zwetschgenmaennchen
und Zwetschgenfrauchen) もこの市の名物だそうで、
値段も2マルクから5マルクといった手頃なものなの
で飛ぶように売れている。高価なものでも精々25マルク
どまり。その一つに素朴な木彫りの人形 (Raeucher-
menschen) がある。胴のなかで小さな緑色の香
(Raeucherkerzchen) がたけるようになっている。人形
の口から烟りが出る趣向で、日本の線香よりも甘い芳香
をはなつ。これは、肉料理やなにかをたべたあとで部屋
の空気が濁ったときに香をたくことがあるそうだが、
この木彫りの人形を見ているだけでもなかなか楽しい。
民芸調のもので、いかにもローカルカラーを尊重して、
大量生産にはしらないドイツ人らしい律義さがうかがえ
て嬉しい。図柄も一つ一つ変えて作り、買った人がそれ
ぞれ自分の買物に満足できるようになっている。そして、
これも、幼子イエズスの市でなければなかなか手に入ら
ないものだという。

もとより、ニュルンベルクにも、派手なクリスマスの飾り
つけをして、サンタクロースが姿を見せる目抜の通りも
あるし、夜店の屋台とは異なり、ネオンに照らされた、
暖房のきいた店内で高価な品物も売っているが、なんと
いっても、庶民の心をぐっととらえる情緒を満喫できる
のがニュルンベルクの幼子イエズスの市なのである。
    (12月号)   

成瀬先生のドイツ史に関する解説記事は他にもいくつか載せてあります。成瀬先生から転載の許可のハガキを戴きました。

             

 

 

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