基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第25巻第1号−第12号(昭和49年5月−昭和50年4月)

ドイツの心臓部ザクセン 
            成 瀬  治

ザクセン (Sachsen) とは、もともと西ゲルマン
人の有力な部族の名前で、これがドイツ王国の
建設当初に大きな役割を演じたことは先にお話
したとおりですが、部族公国としてのザクセン
の領域は Elbe 河の西方、Weser 河をこえて 
Westfalen におよぶ北ドイツで、のちの領邦
ザクセン公国よりずっと西北方に当たります。
キリスト教が伝えられてからは、Corvey を
はじめ多くの修道院、Bremen、Magdeburg など
の大司教座が設けられ、また王宮のある Goslar
を含む Harz 地方は鉱山資源にもめぐまれ、
神聖ローマ帝国の初期には、ドイツ全体のなか
でもとりわけ重要な文化的政治的中心をなして
いました。オットー大帝ろをはじめ初期の有名
な皇帝が輩出したザクセン部族公の Billunger
家は、フランケン部族の Salier 朝に王位が
移ると、何かにつけてこれと対立し、叙任権
闘争で知られる皇帝 Heinrich IV. のときには、
この地方の貴族たちをひきいて大がかりな反乱
までおこしています。しかし、何といっても
いちばん劇的な事件は、12世紀の強大なザクセン
部族公 Heinrich (在位1140-1180) とシュタウ
フェン朝の皇帝 Friedrich I. との争いでしょう。

Heinrich はバイエルン公位をも兼ねる Welfen
家の君主で、Friedrich I. のいとこに当り、
豪勇のゆえに「獅子王」(der Loewe) とあだ名
されています。かれはドイツ人の東方植民に
指導的な役割を果し、とりわけ Luebeck 市
をはじめとする都市建設によって、のちのハンザ
同盟の基礎を築いた実力者ですが、治世の後半
には、それまで友好関係にあった皇帝とはげしく
対立するようになりました。Friedrich I. が精力
をかたむけたイタリア政策に意義を認めないかれは、
1176年の皇帝のイタリア大遠征にさいして従軍を
拒否するなど露骨な反抗的態度をとったので、
皇帝は、かねてより獅子公の傍若無人な振舞いを
快く思っていなかった近隣諸侯の協力をえて
これを討ち、ついに1181年その全領土を没収し、
ドイツから追放するという断固たる処置をとった
のです。部族公国としてのザクセンはここに終り
を告げ、没収された獅子公の領土は皇帝に忠実な
貴族たちに知行として分与されました。このとき
ザクセン公の地位は Askanier 家(その一族は
ブランデンブルク辺境伯領を建設したので有名)
の Bernhard に授けられましたが、かれの本領は
Elbe 河の彼岸 Wittenberg 市を中心とする東方
の新領地でした。1356年の金印勅書で、このザクセン
公国は七選帝侯国のひとつに定められます。

ところで、かねがね Askanier 家と張り合いながら、
ザクセン公国の南方、Thueringen 地方をも含む
Meissen 辺境伯領を着々と拡大していた、いま
ひとつの有力な家門がありました。 Wettiner 家
がそれです。Wettiner 家の領邦は、Erzgebirge の
豊かな鉱山資源や、東部ドイツ最大の商業中心と
なる Leipzig (1214年に建設) を擁して富強を誇って
いましたが、1423年にザクセンの Askanier 家が
断絶したとき、皇帝 Siegmund (この皇帝はベーメン王
でもあり、フスの処刑やホーエンツォレルン家を
ブランデンブルク選帝侯に封じたので有名)はザクセン
選帝侯国を Wettiner 家に与え、ここにザクセンは
マイセンをも含む中東部ドイツの一大勢力にのし上っ
たのです。しかし1485年にいたって選帝侯エルンスト
は弟のアルブレヒトと国土分割協定を結び、その結果、
今後エルンスト系 (Ernestiner) が選帝侯位と
Wittenberg から Thueringen にいたる地域を保持する
かわりに、アルベルト系 (Albertiner) は、 Leipzig 
や Dresden を含む旧マイセンの中核部を支配すること
となりました。ルターの宗教改革の保護者 Friedrich
公は、もちろんこのエルンスト系の君主であり、他方
アルベルト系のザクセン公 Georg は差当りカトリシズム
の強力な支持者として、1519年の有名な Leipzig 討論会
を主宰しました。

ところで1546年におこったシュマルカルデン戦争で
ザクセン選帝侯 Johann Friedrich が皇帝軍に敗れた
とき、アルベルト系の Moritz 公はうまく立回って皇帝
Karl V. から選帝侯位と共に Wittenberg を含む旧
ザクセン選帝侯国のかなりの部分をも獲得することに
成功したのです。このとき以来、アルベルト系の
ザクセン(ここでは長子相続制がはじめから確立して
いた)がプロテスタントの選帝侯国として帝国の政治に
重きをなし、順調な発展をとげたのに反し、中世的分割
相続の原理を固執するエルンスト系の方は Weimar、
Eisenach、Gotha などの小公国に分裂し、18世紀には
プロイセンの衛星国みたいな地位に置かれてしまい
ました。しかし、政治的な運命はともあれ、全体として
のザクセンの古い文化的な伝統が近世になっても長く
保たれたことは、 Eisenach 生まれの楽聖バッハが
Leipzig に永住の地を見出した事実からもわかるで
しょう。
    (11月号)



ドイツ美術の歴史(1)
            小塩 節

ドイツ美術はやや生(き)真面目な、かげり
がちの顔をしながらも、明るいフランス、
イタリア美術とともに、ヨーロッパ近代美
術の大きな歴史のなかで3大主柱のひとつ
です。ドイツの産んだ文化のうちで音楽と
詩とが、科学とならんで余りにひいでてい
るために、美術はあまり目だたないでいま
す。ドイツから遠く離れた日本にいると、
よけいに目に見えてきません。なにしろ世
界のどこにいても聴ける音楽と違って、美
術作品というものは、その作品のある場所
にいって目で見なくてはならぬものなので
すから。しかし、それにしても、ドイツに
美術がないだろうと思ったりするのは、ち
ょうど逆にフランスやイタリアには音楽が
なく、イギリスには哲学がない、と多くの
日本人が思いこんでいるのと同様に、こっ
けいきわまりない誤りと言わなくてはなり
ません。そこでこれから、ドイツ美術のあ
らましを読者のみなさんとごいっしょに見
てまいりたいと思うのです。

ごくおおざっぱに言って、ドイツの美術
の流れを次のようにまとめてみます。:

 先史       カロリング王朝期
          の美術 ― 7、8
          世紀
 ドイツ美術史初期 オットー朝時代―
          10、11世紀
 ロマネス     シュタウフェン朝
          時代―11,12世紀
 ゴシック     13世紀から15世紀
          にかけて
 ルネッサンス   15,16世紀
 バロック     30年戦争のあと一
          17,18世紀(ロコ
          コ期を含め)
 古典主義以降   19世紀以降,現代
          へ(表現主義の盛
          期を含めて)

この時代区分は申すまでもなく、ひとつ
の目安に過ぎません。世紀が変わったとた
んに美術の流派が突如変わるなどというこ
とはないのですから。

さてそこでさっそく先史から始めること
にしましょう。

ゲルマンの土壌の上にローマやビザン
チンの先進美術が伝えられ、重厚で堅実な
作風がはじまるのは、カール大帝 Karl der
Grosse[カール デア グローセ]の治政下に
おけるフランク王国でした。カールという
名前からカロリング朝というのですが、こ
のフランク王国はゲルマン民族のなかの一
部フランク族がライン河の東西にわたって
つくりあげた大きな国で、ほぼ今の独仏両
国をふくんでいるわけです。それで、この
国の美術をドイツだけのそれと言ってしま
っては、少々言いすぎなわけです。

ドイツの西のはずれ、ベルギーとの国境
近くに Aachen 〔アーヘン]という鉱泉で知
られる静かな町があります。カール大帝は
国内を巡回して治めていましたのでここだ
けが都ではないのですが、いくつかの都の
うち、ここをいちばん大切にしていたよう
です。というのは、大帝はここにドイツ史
で最初のドイツ的な石造の礼拝堂をつくら
せたのです。写真でごらんになるアーヘン
大聖堂は、大帝の礼拝堂の前うしろに後代
に造り増しをして大きくなったものです
が、その大聖堂の中心をなす8角型の重々
しい礼拝堂は、ローマから伝わってきてい
た当時のバジリカ様式とはかなり違った、
北方的なものでした。大帝に命ぜられて設
計建築にあたったのはメッツ生まれのフラ
ンク人です。カール大帝はこれでおおいに
自信を得たのでしょう。教会堂の木造建築
を禁じました。このときから、ヨーロッパ
の教会はみな部厚い石の壁に守られた、石
造りのものとなったのだなあ、――ぼくは
アーヘンの礼拝堂にすわって、しみじみと
思いました。ぼくら日本の宗教建築はすベ
てやさしい木造で、重点は美しい曲線の流
れる屋根です。ヨーロッパの教会のポイン
トは、この重厚で強靭(きょうじん)な石の壁にある。
この壁によって外界からきびしく自己を限
り、硬質で篤(あつ)い信仰と共同体的愛の思念
がこらされ、孤独な人間がひとりで神の前
に立ち、神と対話するドイツ的人間の原型
がつくられていったのだな、と思いまし
た。そして、これがドイツ人の美意識のは
じまりでもあるのだな、と思わずにはいら
れませんでした。
    (11月号)   

             

 

 

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