基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第25巻第1号−第12号(昭和49年5月−昭和50年4月)

たのしむ語学
           真  鍋  良  一

高瀬鎮夫という人が、今年の3月頃東京新聞に「スーパーまん談」―一字幕づ
くり奮戦記―一という題で、映画台本の翻訳苦心談をおもしろおかしく書いてお
りました。まことに映画人らしく、私に言わせればむしろ「カツドウ屋さん」ら
しく、ユーモアをまじえての、男女の台詞(せりふ)を反対に訳してしまったりするお
話などがのっていました。『ジョン・ウェイン氏が「そうテレさすなよ」とのた
もうた所を、「あたし、はずかしいわ」などと訳してはまずいであろう。笑い話
ではない、実際にあり得る話であり、またこの種のチョンボは数限りなくあった
し、今後もあるだろう』と。そしてこういう間違いは、プロとして誠に困る、ノ
ンプロにもわかってしまう誤りだから、と書いています。

さて、ここのところ、少し固く書きますと、「誤訳はあり得る、この種の誤訳
は無数にやってきたし、今後もやるだろう」ということなのですが、こう正直に
言ってのけられるのも、高瀬氏がプロはプロでも、映画翻訳のプロであって、語
学教師というプロではないからでしょう。外国語翻訳の苦心もさることながら、や
はり一方では楽しんでいる余裕が感じられます。そこへゆくと、プロの教師は、
「間違わない」と思われているからか、いや、むしろそう思われていると思っている
からか、間違ってはいかんと固くなりすぎて、外国語を余裕と楽しさをもって勉強
する面より、苦しんでいる面のほうが目につきます。さるドイツ人が私に言った
ことがあります。「日本のドイツ語の先生がたはどうしてあんなに、間違っては
いかん、間違っては大変と思いながら会話をなさるのですか」と。つまり会話の
気分がでないじゃないかといって、多少日本人教師の「完璧性」に対するフンレ
イドリョクを皮肉っているのですね。そう言うわけで、医者が「誤診はあり得
る、自分も無数の誤診をやってきた、今後もやるだろう」と言えないように、教
師も医者と一緒に、絶対に誤訳、誤診などしないという顔をしているわけです。
プロのつらさ。

ここではっきり言っておきましょう。教師だって間違うことはあります。間違
いの多いのが悪い教師、悪い翻訳、悪い注釈で、間違いの少ないのがよい教師、
よい翻訳、よい注釈です。

語学でひと苦労するという言い方がありますが、同時に裃(かみしも)をぬいで、くつ
ろいで楽しむだけの余裕も語学の上達には必要です。要するに、これが言いたか
ったわけです。
  (7月号)



ドイツの学生組合
                       坂本明美

ハイデルベルクやチュービンゲンのよう
な西ドイツの伝統的な大学町では、肩から
ななめに三色のたすきをかけ、同じ色の帽
子をかぶった学生達が、同じ恰好をし、中
には顔に刀傷のある中年あるいは老年の男
性達と通りを大声で唱いながら練り歩いて
いるのに出会うことがあります。

日本では Meyer-Foerster(マイヤー・フェル
スター)の戯曲『アルトハイデルベルク』
で、ロマンチックな想像をたくましくされ
ている学生組合の現役学生達と、その先輩
Alte Herren(アルテ ヘレン)です。彼等が
Korps(コーア)とか Verbindungen(フェアビ
ンドゥンゲン)とか呼んでいる学生組合は、
ドイツやオーストリアなどドイツ語圏の大
学町にのみ見られる現象で、その起源は18
世紀までさかのぼります。1815年、ナポレオ
ンの没落以降自由主義と国家主義を掲げて
各地で政治活動を開始し、その過激さ故に
政府に迫害されることもありました。1848
年、黒、赤、金色の旗印の下に、小国分立
を打破し共和制を確立しようとしてたち上
った学生組合は、自由主義的な革命を目指
していました。主として良家の子弟が加盟
した組合ですから、一般からはエリートの
集団として尊敬されたり、うさんくさがれ
たりもし、神秘のヴェールが学生組合の周
囲に張りめぐされました。こんな怪しいと
ころがあった為でしょう。ナチス政権下で
はすべての学生組合は解散させられ、禁止
の浮目を見ました。第二次大戦後も東ドイ
ツでは今日まで禁止されたままです。オー
ストリアや西ドイツでは一端禁止されたも
のの、今では社会復帰が許されています。

1878年、ピストルの国アメリカからヨー
ロッパ徒歩旅行を思いたってやって来た作
家のマーク・トウェーンもハイデルベルク
で遇然目撃した Verbindungenの学生のい
わゆる決闘 Mensur[メンズール]の異様さ、
残酷さに驚いたり畏敬の念を抱いたりして
いますが、Mensurは今日でも一部の学生組
合の大きな特徴になっています。Mensurと
はそれぞれ異なった Verbindungを代表す
る学生が一対一で長剣を使って渡り合うこ
とを指しますが、もちろん命のやりとりが
目的でない証拠に、致命的な箇所、たとえ
ば眼、喉、胸、手、腕には防具を付けます。
一方が長剣を一定回数だけビュンビュン振
りまわして相手の頭部を襲えば、他方は同
じく長剣でこの刃をはらいます。こうして
交互に攻撃と防御を繰返します。遅悪く、
あるいは運良く、―方の剣の刃が相手の顔
の一部をかすめた時、先輩で医者をやって
いる人が、ドクターストップをかけ、傷の
程度を見て、試合の続行あるいは中止を提
案します。試合の後、顔に残った傷は名誉
ある傷として仲間内では貴重がられます。
この種の Mensurは今日の西ドイツでは禁
止されていますが、学生組合の地下室や屋
根裏部屋、あるいは人里はなれたところで、
ひそかに行われています。Mensurは肝
試し Mutprobe[ムートプローベ]として自分
の属する組合の栄誉をかけて行なわれます
から、ここで尻込みしたり、試合を放棄す
れば組合から除名されます。Mutprobeを
実施する学生組合にあっては Verbindung
の伝統や慣習は特に重んじられ、大学に入
学したて、組合に加入したばかりの学生に
あっては、一定期間、団体生活を組合所有
の建物でするように義務付けられます。起
床、登校前の剣術訓練、組合の歴史や秀れ
た先輩のことを勉強したり、学生歌の歌詞
を延々と覚えたりすることも大事な日課と
されます。

学生組合のすべてが Mensurを実行する
わけではありません。すでに19世紀後半に
は決闘をしない学生組合 Nichtsch1agende
Verbindungen[二ヒトシュラーゲンデ フェア
ビンドゥンゲン〕も誕生しており、今日では
日本の大学の文化関係のクラブにも似た雰
囲気を持つ種々の団体、たとえば歌の好き
な学生達が集まっている組合などもありま
す。

しかし一般の学生と組合に所属する学生
め間には、明確な一線が引かれているよう
です。外見でも Verbindungenに所属する
学生は、バンドに三色リボンの略章をふだ
んも下げているので判りますし、良く言え
ば折目正しい、悪く言えば型にはまった言
葉遣いや態度で仲間以外の学生に接するの
でもそれと判ります。

一般の学生には、Verbindungenの学生達
を恐ろしく反動的で保守的な学生集団と考
えて敬遠する人々が多いようですが、最近
の西ドイツでは左翼学生の過激きの方が目
に付いて、彼等の、そもそも人目をはばか
る場所で行なわれる Mensur に象徴される
激しさも、かすんでしまったと言ってよい
でしょう。

ほんの―握りの学生組合員は、今日の西
ドイツの社会では、もはや大きな政治的な
要素とは考えられません。多くの学生組合
員にとって、Verbindungen は、親許を離
れて初めて一人で生活する大学町で自分を
見失わない為の隠れ家になっています。こ
こには、大学の講義室にはない、先輩、後
輩のあたたかい人間関係がありますし、大
学を卒業した大先輩、Alte Herren 達の援
助を得て、就職や結婚の際、大きな成功の
手懸りがつかめるかもしれません。

結局のところ、Verbindungen の学生たち
は、裸の付き合いを求めて集まった毛並の
良い子弟で、一般社会のわずらわしさから
出来るだけ遠ざかって、可能なかぎり、ロマ
ンチックに学生時代を過ごそうとしている
少数派に過ぎないのではないでしょうか。
  (7月号)



ディーゼル
      ―生涯と業績―
                  近藤市郎

Diesel 機関が現代人類の生活と活動を支え
ている役割を知らない人はないであろう。
船舶もトラクターも土建機械も農耕機械も
ほとんどすべてが Diesel 機関で動かされ、
Diesel 機関車、Diesel 発電機、Diesel ポンプ
などすべてその動力は Diesel 機関である。
Diesel 機関は石油のエネルギーを最も効率
よく動力にかえる最も経済的熱機関である
からである。

この Diesel 機関の熱力学的原理を発明し、
その原理による動力機関を世に出したのが
Rudolf Diesel [ルードルフ ディーゼル]
その人である。彼の発明は思いつきとか閃き
とかによる偶発的のものではない。彼は
青年時代から効率の高い熱機関ができるはず
であると考え、その基本理論から始め作動
サイクルを考案し、これを動力機関化した
のである。

Rudolf Diesel は1858年 9月18日(安政 5年)
パリーに呱々の声をあげだ。彼の両親は
ドイツ人で、父は革職人であった。12歳の時
普仏戦争が起こり一家はロンドンに逃れた。
ロンドンでの一家 5人は、その日のパンにも
事欠く状態であったので教育のことも考え
Rudolf だけは Augsburg [アウクスブルク]
の親戚の Professor Barnickel [プロフェッソア
バルニッケル] 家に引きとられた。
5日分のパンと僅かの金を持って海を渡り汽車
を乗りつぎ、はじめて見る父母の国への一人旅
であった。Barnickel さんは8日を費して漸く
安着した彼をあたたかく迎えてくれた。ここで
彼は工業学校に学び優秀な成績で卒業した。
彼の進学の意志はかたく、進んで Muenchen
工科大学へ進んだ。かの有名な Proffesor
Linde は彼を愛し Linde 教授の下で熱力学を
学んだ。

1878年20歳の学生 Rudolf の学習ノートに「燃料
が持つ熱量の僅か10パーセントしか有効な仕事
に利用し得ない蒸気機関より、もっと効率の高い
機関ができるはずである。私はこれを実現する。」
と書かれてある。

1879年最優秀の成績をもって卒業した Rudolf
は、スイス Sulzer 社で働き、間もなくパリー
のリンデ式冷凍機械製造会社において冷凍機・
製氷機の製造販売に従事したが、パリーは
ドイツ人である彼の活動に好条件を与えてくれ
なかったので、ベルリンに移りここを拠点として
活動した。この間彼の高効率熱機関への情熱は
常に旺盛で、この方面の研究を怠らなかった。

1883年25歳の時パリーで Martha [マルタ]を
見そめ熱烈な恋愛の後彼女と結婚した。
Martha もドイツ生まれで美人で活動家で
あった。

1892年 Rudolf Diesel はついに高効率熱原動機
に関する特許を獲得した。翌1893年、かの有名な
論文 "Theorie und Konstruktion eines
rationellen Waermemotors" [テオリー ウント
コンストゥルクツィオーン アイネス
ラッィオネーレン ヴェルメ・モートルス]
を発表した。この頃からこの理想的熱機関の完成
と普及を目ざして猛烈な活動を開始した。しかし
原理を実用化するためには、技術的にも経済的
にも多くの難関をのりこえなければならなかった。

1893年第1回試作機械、引きつづき第2回試作
機械の実験では基本的可能性は認められたが
実用には遠いものであった。1897年第3回目の
試作機関で、はじめて彼の理論が実証され世界の
原動機界に大旋風をまき起こしたのである。

世界の機関製造会社は競って Diesel 機関の
製造販売権を得るため Augsburg を訪れ彼は
各国へ出かけて交渉した。彼は巨万の富を得た。
しかし自ら研究所や製造会社を設立し、これに
投資し莫大な負債もした。得意と失意。成功と失敗。
時に持病の頭痛に悩まされるなど彼の生涯は波乱に
富んだ生涯であった。

1913年9月29日イギリスの Ipswich に設立せら
れた Diesel 機関製造会社の招きに応じイギリス
に渡る船中で忽然として姿を消した彼の死因は
永久のなぞとして残されたのである。

さて話は変るが小型 Diesel 機関のメーカーと
して有名なヤンマーディーゼル株式会社の初代
社長山岡孫吉氏が1953年 Augsburg のM.A.N.
社を訪れ Diesel さんの墓を御参りしたい旨
申し出たところ、墓のないこと並びにその所以
について知らされて落胆した。日頃 Diesel さん
を恩人として崇拝していた山岡氏は、それでは
私に Rudolf Diesel さんの記念像をこの町に
建てさせていただきたいと申出て市長も大変
嬉ばれ協力を約された。帰朝後直ちにその実現
に着手し、日独協会の特別の配慮を得て坂倉準三
氏の設計による石庭苑を贈ることとなった。
この石庭苑は Augsburg 市 Wittelbach
 [ヴィッテルバハ] 公園内に生垣に囲まれた
968平方米の芝生に大小 56個の日本から運ばれた
石を日本庭苑流に配置した石庭苑いであって、
最も大きい約30トンの大石に菊池先生の作になる
Rudolf Diesel の顔の浮彫がはめこまれ
"Unsterblich lebt dein Geist in den Landen
Japan" [ウンシュテルプリヒ レープト ダイン
ガイスト イン デン ランデン ヤーパン]
と刻まれている。

この石庭苑は1957年10月6日盛大な開苑式が
行われ、偉大な発明家 Rudolf Diesel の功績
をたたえる不滅の記念として、永久に苔むす
であろう。
  (7月号)

             

 

 

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