ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。
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ダイムラー 成江 淳 Gottlieb Daimler [ゴットリープ・ダイムラー] は 1834年、シュヴァーベン地方のショルンドルフ のパン製造業ヨハンネス・ダイムラーの息子 として生まれた。父はゴットリープを、商人 ではなく官吏にしたいと望んでいた。生れた 環境にきわめて恵まれ、彼自身は数学や幾何学 に強い興味を示していた。この方面の才能は 誰も認める有望なものであった。 1848年、そろそろ戦火が広まってきた頃、 父はハーマン・R・ライザー社という鉄砲 メーカーへ彼を入れ、ここで彼の技術屋 としての第1歩が印されたのである。 性格はどちらかというと孤独で、趣味は もっぱら歌を口ずさむことで、とくに詩人 シラーを尊敬したといわれる。 ゴットリープはライザー社を訪れた学者 フェルディナンド・ステインベイスに誘わ れて、英国、フランスでとくに機械構造、 フリーハンド・ドロウイング、幾何学、特殊 機械工学を学び、ついに工学士の称号を 取ったのである。彼はこの時にすっかり英語 をマスターしたらしい。ついでアームスト ロング・ホワイト・ウース・ロバート&CO で働きそこで特許の取得法を学んだ。 1868年ロイトリンゲン機械製作所で働き、 そこで後の彼の協力者 Wilhelm Maybach [ヴィルヘルム・マイバハ] に会っている。 この二人は 1868年にカールスルーエ機械 製作所に移り、ダイムラーは工場長となった。 この時からすでにマイバッハはダスムラー にはなくてはならない相棒となったわけだ。 2人はもうすでに力を合せて内燃機の制作に とりかかっていた。高速エンジンの可能性を 見出したのは、1881年ロシアへ旅をして ロシア人技術者との交換が大きく役立っている。 いよいよダイムラーはマイバッハと共に ガソリン・エンジン付きの車を造るために カールスルーエを離れ、1887年7月シュヴァー ベン地方のカンシュタットに小さな工場を 設立した。工場は小さいながら3方に窓を 備えた明るい部屋で設計室はマイバッハが 住んでいる近くの家に置かれた。さて、 この時々ものすごい音のする小屋で、近所の 人々は「そっと何かよからぬことが行われ ているにちがいない」と思い始めた。 そしてある朝数十人の警官がダイムラーの 工場に突然押し入った。しかし彼等が思って いたような贋金造りの機械はまるで発見でき なかった。これはダイムラー家に時々来て いた庭師が、警察に贋金造りが行われている らしいと密告したからであった。いわゆる 馬なし馬車の設計図はマイバッハの手に よって着々と仕上げられていた。 1883年ダイムラーは、ホット・チューブと 呼ばれるいわゆる点火装置を発明し、これ によって仕事は一挙に完成に近づいた。 最初の軽量エンジンはまず完成された機構 を持つ自転車につけられることになった。 これがどうも楽に作業ができすぐにでも 走り出せるようなしろものと思われたから である。ついに世界初のモーターサイクル が発明された。木と鋼鉄を組み合せた頑丈 な構造で、エンジンの上にはちょうど馬の鞍 のような座席がつけられた。この2輪車の テストをしたのが長男のポール・ダイムラー で、カンシュタットから 3km 離れたウンター トゥルクハイム間を往復した。大きな音と煙 に巻かれながらポールの試走は大成功に終わ った。ダイムラーはこの時から自分のエンジン をあらゆる乗物に利用しようと云う野望を いだいた。そして2輪車の次にはネッカル河 の舟にこのエンジンがのせられたのである。 1886年、最初の4輪車はマイバッハ自身と ポール・ダイムラーが試乗に成功したので ある。この車はオートバイと共に現在も ダイムラー・ベンツ社(シュトゥットガルト) の博物館に納められている。 1887年フランクフルトのレガッタ・クラブは ダイムラーとマイバッハにモーターボートの デモンストレーションを要請した。 ダイムラーはエンジンをさらに多くの乗物 に使うという夢を着々と実現に移していった。 カンシュタットの電車にもエンジンをつけた。 シュトゥットガルト駅前にダイムラーのタクシー が動き出したのは 1888年のことであった。 官公庁も積極的にダイムラーのエンジンに ついて検討を始め、消防はもっとも早く採用の 結論を得た。1890年11月カンシュタットに DAIMLER・MOTOREN・GESELLSCHAFT [ダイムラー・ モトーレン・ゲゼルシャフト] が発足、より 積極的な販売が開始された。 ダイムラーのもう一つの才能は会社の経営面 でも認められる。優れた経営者という所以は ”販売を補うサービス”というモットーを 市場に約束したことにある。加えて”改良に つぐ改良”という言葉も彼の信念を表す 立派な姿勢であった。 マイバッハを始め従業員達はこのモットーを 守ってダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト の信用を絶対のものに仕上げていった。 ダイムラーという人間は決して人の前で大口を たたいたりする商売人ではなかった。しかし 彼の仕事に対する情熱、そして自身の作品を 真に愛するということが、仕事を成功に導く ものと信じていた。 1893年アメリカに渡りシカゴのコロンビア博物館 に製品を出品し数か月滞在した。1894年パリ― ルーエン間レースでダイムラーのエンジンを載せ たフランス車パナールとプジョーが堂々上位を 独占したことはモータースポーツの史上に 輝いている。みずからも 1896年ロンドン― ブライトン間の「解放ドライブ」(今日も クラシックカーの”ブライトン・ラン”として 有名)に参加したりして、ゴットリープ・ ダイムラーは1900年3月6日この世を去るまで、 自分の作品に存分にひたっていた幸せな余生で あった。 会社は長男ポール・ダイムラーに継がれ、 1926年には同じドイツの自動車発明家カール・ ベンツの会社 BENZ & Cie と合併、今日 シュトゥットガルトに本社を置くダイムラー・ ベンツ AG が誕生したのである。かの有名な 乗用車 Mercedes-Benz [メルツェーデス・ベンツ] の名称もこの時誕生したのであった。 (6月号)