基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第25巻第1号−第12号(昭和49年5月−昭和50年4月)

本誌をはじめて手にされる読者諸兄に
   (編集方針の一端)
                                                  真鍋良一

ドイツ語はむずかしい言葉であるとよくいわれますが、むずかしいのはドイ
ツ語にかぎらず、外国語というものはむずかしいものと相場はきまっております。
さてそこで、特にドイツ語がむずかしいという定評があるのは、ある意味からい
うと、ドイツ語は「入りにくい」言語だからなのです。最初につきやぶるべき壁
が相当堅固なためなのです。

そこで、その壁のつきやぶり方、つまりドイツ語の学び方、勉強の仕方がい
ろいろと研究され、近頃はドイツでも「外国人のためのドイツ語、ドイツ文法、
ドイツ語読本」、それも基礎級、初級、中級、高等など、いろいろな本が沢山でて
おります。なかなかよい本もありますし、文例などもすぐれたものがのっており
ます。しかしこれらの手引書、参考書の最大の欠点は、著者または編者が日本語
を全然知らないということです。基礎級程度の入門書ですら、ドイツ語で書いて
ありますし、まして和文独訳の練習などというものはもちろんありません。「なま
じ」「さすが」「せめて」「いっそ」「まして」などをドイツ語で何というかなどと
いうことは、そういう「ドイツ製」の本からは学べません。大ざっぱにいえば、
練習を繰返し、暗記して憶えていくという編集方針でつくられています。それも
よろしいのですが、日本語を知らない人がつくっているという点で、不備がある
のはまぬかれません。

さてその入りにくいドイツ語を日本人むきに、またドイ
ツ人の気のつかない点にまで気を配って、整理して体系だて、
日本におけるドイツ語教育、ドイツ語研究に、新しい大きな
指針を与えたのが「関口文法」です。(昭和7年に三省堂から出
た「新ドイツ語文法教程」が,その画期的な関口文法で、現在は
「三訂新版」がでております。)

本誌はその関口文法を基礎として、ドイツ語の学習に不可
欠な初等知識を、講座風に編集して指導する雑誌です。一種
の誌上講習会と考えていただいて結構です。講習会ですから
説明は聴講者を前において話をするのと同じで、座談口調でいたします。しかし
講習会とちがうところは、いわゆるマスコミ的、マスプロ式ではなく、読者一人一
人を相手に個人教授的に話をすすめていく点です。話し言葉で教えるのが一番よ
ろしいのです。個人教授はもちろんですが、学校でも講習会でも、文語調や「で
ある」調、まして演説口調で外国語を教える先生はいないでしょう。

やり方としては5月号からだいたい翌年の2月号ぐらいまでに、どうしても
必要な基礎知識を獲得できるようにもってゆくと同時に(いわばドイツ語のメイ
ンストリートをご案内するわけです)、12月号あたりから4月号にかけでは、や
や程度の高い、中級への橋渡し的講座も並行させてまいります。(ドイツ語の表
通りばかりでなく、裏通り,横町、バー、飲み屋までもご案内しようというわけ
です。)普通なら程度が高すぎるとして、初級では教えないような、中級、高等
に属するような事柄も本誌はとり上げます。相当高級なことも初等知識でわから
せる――これも創刊以来の本誌の編集方針のひとつであり、かつ特徴です。

最近は「現代のドイツ語」の研究がドイツでは盛んです。辞書や文法書など
も現代語を対象としたものがどんどん発刊されています。言語というものは動き
ます。発展もしますし、堕落もします。要するに変化します。明治時代と現代の
日本語をくらべるまでもなく、この点は十分おわかりでしょう。本誌は関口文法
の体系を編集上の根本としておりますが、現代のドイツ語の動きにもたえず注意
をむけ歩調をあわせております。はじめにふれたドイツ人の手になる外国人用参
考書はもちろん、ドイツ人のための語学書などにも常々目をくばり、(単にその受
け売りをするのではなく)、関口文法の立場から、日本人にもよく解るように「お
料理」して紹介もし、解説もおこたりません。その他ドイツの語学研究機関――
たとえばミュンヒェンに本部をおく、ドイツ語ドイツ文化の普及機関「ゲーテ・
インスティトゥート」、語学関係書の出版で世界的に有名な「ランゲンシャイト
社」、シュトゥットガルト市の「外国関係研究所」と科学ものの出版で有名な
「フランク社」などと密接に連絡または提携して最近の知識を吸収し、とくに多数
の語学者・言語学者を擁してドイツ文法の総元締めといわれる「ドゥーデン
(Duden)編集部」とは1964年来のおつき合いで Duden が本誌の質疑応答欄を
担当するという形式で本誌の執筆陣に参加しているのです。こうして日本で「最
古の歴史」を誇る本誌は、ドイツから「最近の知識」をとり入れ、日本のみなさ
んに理解しやすいように、調理お膳立てをして提供しているわけです。
 
最後にもうひとつだけ申し上げますが、この雑誌は執筆の先生がたに原稿を
依頼して、集まったものをひとまとめにして掲載するといったようなやり方をし
ておりません。かならず毎月ごとに編集会議を開き、執筆の先生がたが意見を交
換し、論議もし、分担もきめ、できた原稿も互いに読みあわせて、連絡をとり統一を
はかり、あたかも1人の先生が書いたような効果を目的とする、総合編集です。
語学雑誌でこういうやり方をしているのは、本誌だけだと思います。
     (5月号)

 

ジーメンス
                         関口存哉

Werner von Siemens(ヴェルナー フォン 
ズィーメンス)は、現在西独における最大の電
機会社である Siemens社の創始者ですが、そ
れとともに、19世紀の電気技術の発展に貢
献した偉大な技術者として知られています。

19世紀の中期までは、英国が産業革命の
主導権を取り、技術の優位を保って来まし
たが、その後、次第にドイツの技術力が英
国をしのぐようになります。その背景には、
小邦の統一によりドイツの国力が増大し、
政情が安定したことがあります。しかし、
何と云っても、科学と技術に対するドイツ
人のすぐれた物の考え方、技術の教育に対
する努力を見逃すことはできません。

産業革命そのものが、Watt の蒸気機関
の発明に見られるように、科学と技術の接
触によって生まれたのですが、英国におい
ては、その後、技術は工業の枠の中でのみ
育ち、科学とは遊離してしまいました。技
術は現場の中で肌に感じながら覚えるもの
という、英国流の実際的な考え方が支配的
であったのでしょう。Siemens 
は、科学の知識をもった技術者
が、科学と技術との交流を作り、
技術革新のにない手になること
が必要であると信じ、自らそれ
を実現する道を選んだのです。
この意味で、Siemens は当時の
ドイツの技術の発展に対し、指
導的役割を果たした一人である
ということができます。

Siemens は1816年に Hannover
(ハノーファー)の近くの Lenthe に、小作農
家の長男として生まれました。兄妹は、若
死にした4人を除いても10人と多く、家計
は苦しかったようです。このため、Siemens
は大学に入ることが出来ず、16歳のとき、
技術系の軍人を志願しました。当時、プロ
シアの軍の技術学校のレベルは高く、大学
に決して劣らなかったのです。Siemensに
とっては、それが、金をかけずに高度な科
学の教育を受ける唯一の道だったわけです。

Berlin(ベルリーン)の砲術学校で3年間の
教育を受けたのち、Siemens は軍関係の技
術の研究を比較的自由にやれるようになり
ました。しかし、不幸にも、1839年に、1年の
間に父母がともに死に、兄妹たちに対する
責任が重くなりました。彼はまず、弟のう
ちで、Wilhelm(ヴィルヘルム)を引きとり、
Goettingen(ゲッティンゲン)大学で機械工学
を修めさせ、そのあと英国で、進んだ技術
を勉強させます。

1840年に、Siemens は Wittenberg
(ヴィッテンベルク)に移り、ここで電気分解の研究
を始めました。ところが、ここで彼は友達
の決闘の介添役をしたため、軍法会議にか
けられ、城の中に禁錮されることになりま
した。Siemens は、禁錮されている部屋を
実験室にして、電解の実験を続け、金や銀
の電解に成功したのです。当時、Jacobi
(ヤコービ)によって、電気分解で純銅が得られ
ることは判っていましたが、その他の金属
でも同じことができることは誰も知らなか
ったのです。一方の電極にした洋銀のスプ
ーンが数分の間に純金の輝きに変わったと
き、Siemens は、一生のうちでも、最も大
きな、忘れ難い感激を味わったのでした。
それで、突然、恩赦になって禁錮を解かれ
たとき、彼はもう二、三日、部屋に居させ
てほしいという嘆願書を出して、城主を驚
かせました。

この発明の特許実施料によって Siemens
兄妹の経済の状態は一挙に好転します。
Siemens は、早くから、有線による長距離
の電気通信の将来性を見通していました。
そして、1846年には、それまで一般に用い
られていた電信機に重要な改良を加え、次
には、電線の被覆材料として、遙か遠くの
シンガポールで熱帯樹から得られた樹脂に
目をつけ、これを用いました。後には、さ
らにその上に鉛を被せることによって、地
中に埋めても、深海に沈めても耐えるよう
な電信ケーブルを作りました。

1847年に、Siemens は軍を離れ、それま
での協力者であった機械技師の Johann
Georg Halske(ヨーハン ゲオルク ハルスケ)
とともに、Siemens & Halske という電機
会社を Berlin 市内に設立しました。

Siemens は英国の Wilhelm、ロシアに居
る、やはり弟の Carl(カルル)とともに協力
しあい、電気通信の回線の敷設事業に乗り
だしました。これは技術の上で多くの解決
すべき問題を含んでいましたが、事業とし
ても経済上のリスクが多く、工事は危険に
満ちたものでした。しかし、遂に1870年
4月に、ロンドンからベルリン、ロシア、
ペルシアを通って、インドのカルカッタまで、
11,000kmの通信回線を完成させました。
この回線により、英国のビクトリヤ女王は、
ロンドンに居ながらにして、植民地であっ
たインドの様子を刻々と知ることができる
ようになったのです。

このほか、1866年に自励式発電機を発明
し、発電機の実用性を高め、1881年には、
世界でも初めて電車を実用化するなど、数
多くの技術開発によって、ドイツだけでな
く、世界の技術の進歩に先駆的な役割を果
たしました。また晩年には、電気の各種の
量の国際標準の確立、国内の特許法の改正
など公的活動を行っています。また国立
物理工学院(die Physikalisch-Technische 
Reichsanstalt)の設立に際しては、私有の
土地を提供しました。

Werner von Siemens は1892年11月13
日、Berlinで死にました。Siemens は死ぬ
前に自叙伝を著わしましたが、その中で彼
は「自分の生涯は努力しがいがあり、それ
だけ実りのあるものだった。しかし、人生
の終わりにのぞんで残念に思うことは、この
科学技術の時代に、もっと生き延びて、仕
事を続けることができないことである。」
と云っています。この言葉から、私共は、
Siemens が、彼の死後の科学や技術の急速
な発展を深く予見していたことを感じとる
ことができます。
  (この原稿は本が古くて変色していてスキャナーが解読不能のため、全部手で
入力した。ああ疲れた。)
     (5月号)

            

 

 

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