基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第23巻第1号−第12号(昭和47年5月−昭和48年4月)

アルバート・シュヴァイツァー
                 小塩 節

Keiner von uns darf behaupten,daβ er einen andern wirklich kenne1,
und wenn2 er seit Jahren taeglich mit ihm zusammen lebt. Von3 dem, was
unser inneres Erleben ausmacht, koennen wir auch unseren Vertrautesten
nur Bruchstuecke mitteilen.
わたしたちのうちの誰も、自分はある他人をほんとうに知っている、と言うことは許さ
れません、たとえ何年ものあいだ毎日その人といっしょに生活していても。わたしたちの
内的体験をつくり上げているもののうち、わたしたちはわたしたちのもっとも親しい人た
ちにさえ、そのごく断片を伝えることができるに過ぎません。
[注]1)kenne:接続法第1式,間接話法。2)und wenn: auch wenn. und は接続詞
「そして」ではない。3)von:部分をあらわす von(英: of)。

これはアルバート・シュヴァイツァーが自分の
少年時代をふり返って語った『わが幼少年時代か
ら』Aus meiner Kindheit und Jugendzeit, 1923
のなかの一節です。つまりわたしたちの人生はま
っくらな砂漠をゆく道に似ているのですが、その
道程についてシュヴァイツァーは、この暗黒のな
かで、われわれは互いにおたがいがわからぬまま、
ともに歩んでいるのだ、というのです、ただ時折、
道をともに行く人といっしょに得る体験や、互い
の間にかわされるほんのひとことの言葉によっ
て、彼はまるで稲妻に照らし出されたように、わ
たしたちのかたわらに立つのです。その瞬間、わたしたちは彼のありのままの姿
を見ます。けれどもそのあとではまた、おそらく長いあいだ、暗闇の中を並んで
歩いていくでしょう。その人生の途上で他者のおもかげを思い浮かべることさえ
できない。一一わたしたちがある他人を知っている、というのは互いのぜんぶを
何もかも知り合っているのではなく、互いに愛と信頼を持ぢ合うということであ
り、互いを信じ合うということなのです。人間とは神秘にみちた存在なのです。
わたしたちはたとい家族親友でも他人の精神的本質の中にズカズカ入りこむこ
とはできないのです。愛と畏敬だけが大切です。

Teile von deinem geistigen Wesen denen1,die mit dir auf dem Wege
sind,so viel mit als du kannst2, und nimm als etwas Kostbares hin3,was
dir von ihnen zurueckkommt.
なんじの精神的本質から、なんじと行をともにする人びとに、能うる限り多くをわかち
与えよ、そしてその人びとからなんじにかえってくるものを、貴重なものとして受けとれ。
[注]1)denen:指示代名詞pl,3格で,dem Menschenと同じ。後続の関係代名詞dieの
先行詞となっている。2)so viel mit als du kannst: 「できるだけ多くをわけ与えよ」。
 mit は mit|teilen の前つづり。3)hin|nehmen:受けとる。

コミュニケイションの困難が語られ、人間疎外の声の大きい現代にシュヴァイツァー
の言葉はなんと深い慰めと愛にみちていることでしょうか。彼は、人間は
たがいから与えられる精神の火花によってこちらの心の火も点火されて生きるのだ、
と言います。この世に重くのしかかっているかくも多くの苦悩に対して果敢に
戦い、人生を人のせいにするのでなく、自分の責任で生きぬき、若き日の真実
を求める理想を一生失ってはならぬのだ、と語ります。

シュヴァイツァーは1875年、エルザスの小さな山村の牧師の子として生まれ、
『イエス伝』の著作をはじめ神学・宗教学・文化哲学の偉大な学者となり、すぐれ
たバッハ解駅者であり、堂々たるパイプオルガン奏者だったのですが、なにより
も暗黒大陸といわれたアフリカの奥地に、一切の名誉や地位を投げうち医師とな
って、苦悩する人間のだめにとびこんでいって一生をおくり、1965年理想に倒れ
で世を去った、真のヒューマニストとして知られています。

ぼくは彼のオルガン演奏をレコードでしか聞いたことがありませんが、まこと
に堂々たるものです。しかし、青い夜空に星くずの飛びかうような混沌の青年時
代のドロドロした迷妄のころに、彼の『幼少年時代』を読んで、おそらく最大の
励ましと人生への勇気を与えられたことを、ぼくは一生忘れることはないでしょ
う。書物の形ですけれども、ぼくもシュヴァイツァーに出会うことができた、そ
のおかげで人間と人生への愛をもつことができたのです。白水社の全集または新
教出版社の新書版で、この小さな本を読んでごらんになりませんか。 ドイツ語も
まことに美しいもので、白水社や郁文堂から教科書版がでています。これを読め
ば、彼シュヴァイツァーの魂と精紳の豊かさ大きさを、ご自分の手でたしかめ、
みなさんご自身のものとすることができるでしょう。
    (2月号)   

      

オペラへの招待
 −リヒァルト・シュトラウス−

          荒井秀直

19世紀の芸術は虚飾の芸術である、と言った人が
います。いろいろと飾りたててはなやかだけれど内容
がない、内容がないからますます外観をぬたくり
つけて格好をつけようとする、それはバロック時代
に似ているし、芸術の分野ではオペラがその代表的
なものだと言うのです。たしかにオペラは19世紀が
絶頂でした。その頂点を形造ったのがヴァーグナー
とヴェルディで、この2人は行き方はまったくちが
いますが、従来のオペラをドラマの域にまで高める
べく努力し、そしてそれぞれその頂点をきわめたので
す。ヴァーグナーが新たな芸術の創造だと意気ごん
でのべた総合芸術論に疑問を持った人もいました。
ヴァーグナーの言う総合とはいろいろなものを小道
具として器用に使った小手先のことでしかなく、時
代を超えるものではないというのです。ヴァーグナ
ーの信奉者たちがみんな彼の理論を自分なりに消化
していたわけではないのです。実際はいかにこって
りとぬたくりつけるかということに苦心惨胆して
いた人も多いのです。しかしまたまれに見る才能と
いうものもあります。とても小手先の器用さなどと
いう言葉では承知できないたいしたものもあります。
これには虚飾と知りつつやはり感心させられてしま
います。こういうのは芸術だなどと気ばらずに、
むしろ職人芸と言った方がよいかも知れません。
これは決していやしんで言っているのではありませ
ん。そういう人はこちらの気持ちをにくい程つかん
でいるので、私たちは知らず知らずのうちに引きよ
せられ、気がついてみたらすっかり参っていた、
というようなことになるのです。とても並の人間
ではできることではありません。彼らは魔術師みた
いな人で、私たちはそれと知りつつ翻弄され、まさ
かとか、ヘエとか思いながら最後には感心してしま
うのです。ツボを心得ているというのでしょうか、
やられた方ではなるほどと感心し、やった方では
ニンマリと快心の笑みを浮べているというような
ことを想像してみてください。オペラの世界での
こういう名人は何といってもリヒァルト・シュトラ
ウスとプッチーニです。シュトラウスのオペラは
豪華で多彩で刺激的でエロティックです。聴く者を
本当に酔わせます。しかしその陶酔はいわば麻薬に
よる陶酔で本物ではないのです。
本物でないと知りつつも、やはりもう一度あの音楽
に酔ってみたいという気をおこさせるのが
彼の音楽です。どこが本物でないか、それは言葉
ではうまく言いあらわせません。彼の作品は「サロ
メ」にしても「バラの騎士」にしても「アリアドネ」
にしても「影のない女」にしても、どれをとっても
一級品でないものはありません。これらの作品は
ヴァーグナーの作品よりもずっと楽劇になっていま
す。「終わりよければすべてよし」という言葉が
ありますが、シュトラウスの曲はほとんど例外なし
に各幕の終りが印象的です。「バラの騎士」を例に
とってみましょう。これは日本でも上演されました
し、なによりもザルツブルク音楽祭の映画がすてき
でした。ごらんになった方も多いことと思います。
若い愛人を帰したあとで伯爵夫人は広い舞台でポツ
ンと一人立ちます。オーケストラが室内楽のような
デリケートな音楽を静かに奏でる第一幕。ウィーン
の方言をしゃべり、品はないがどうしてもにくめな
いデブの男爵が、もらった手紙を片手にしてにんま
りとしながらワルツにのって踊る第二幕、結ばれた
若い二人が夢心地のうちにとろけるような素敵な
二重唱をうたう第三幕、どれをとってみてもいつま
でも心に残るまことににくい、コンチクショウと
言いたくなるほどにくい舞台、にくい音楽です。
そのほか皆さんが知っている曲は「サロメ」でしょ
う。予言者ヨカナアンの首に向かってサロメが狂お
しく語りかける場面は圧巻です。「サロメ」には
有名な「七つのヴェールの踊り」がありますが、
これは全曲中で一番つまらない部分です。「サロメ
」の音楽はこんなものではありません。もっともっ
とすばらしいのです。それこそ息もつかせずに進行
します。一息つくところがこの「七つのヴェールの
踊り」の場面です。つまらない音楽が有名だなんて
皮肉ですが、有名なんてそんなことが時々あるので
す。「アラペラ」では男の子だとばかり思っていた
のが本当は女で,最後になって彼女がすばらしく
きれいなイヴニングドレスを着て現れるのでその
効果は絶大です。シュトラウスはモーツァルトや
シューベルトの音楽の一部をぬけぬけと使うことも
ありますし、第二の「フィガロ」、第二の「魔笛」
を意識して書いたこともありますし、音楽と演劇の
結合というのを舞台で実際にやってみせてもくれま
す。きわめて多彩で質といい量といいまことによろ
しいのですが、なにか一ついかがわしい点があるの
です。「いかがわしい」といっても、サロメがスト
リップまがいの踊りをおどるからとか、男装の麗人
がでてくるからいやらしいという意味ではありませ
ん。芸術的にいかがわしいのです。うっとりと良い
気持になっていても、時折どこからともなくすきま
風が吹いてくるのです。でもそれは酔いを覚ます
ほどの風ではありません。陶酔のうちにザマアミロ
という声がきこえてくるような気がするのがいかが
わしさに通ずるのかも知れません。音楽を受けとめ
る場所が心の奥底ではなく、もっと皮膚に近いとこ
ろなのでしょうか。ヴァーグナーやヴェルディの
音楽はちがいます。体内の血がぐっと濃くなった
ような気がします。ヴェルディの音楽をきくと、
文字通り血湧き肉踊るのです。でもシュトラウスも
いいじゃありませんか。本当に酔わしてくれるなら。
それが芸というものでしょう。
    (2月号)   

      

  劇作家
 ブ レ ヒ ト
                 小林栄三郎

詩や評論などの作品も数多く書かれておりますが、Bertolt Brecht [ベルトルト ブレヒト] 
(1898-1956年) と言えばなんといっても劇作家としての仕事が、まず頭に浮かんできます。
大学に在学中から既に演劇界に接近し、劇作や劇評を書いておりました。しかしブレヒトの
名をいわば一夜にして有名にしたのは、1922年に上映された "Trommeln in der Nacht"
[トロンメルン イン デア ナハト]「夜の太鼓」の成功でした。これによってブレヒト
は、ドイツでの劇作家の「芥川賞」ともいうべきクライスト賞を受け、劇壇に地歩をかため
たのです。

この「夜の太鼓」は、1919年のベルリーンでの急進的革命団体スパルタクス団の蜂起を背景
にした、第一次大戦直後のドイツで流行した帰還兵劇の形をとった作品です。戦死したと
思われていた主人公が帰国してみたら、彼の愛する許嫁がほかの男と結婚しようとしている
という、よくある話がこのドラマの筋の発端です。軍需品の製造で金をもうけたバリツケ
は、戦争から戻ってこない許嫁クラーグラーをなお待ち続ける娘アンナに,同じ戦争成金
仲間のムルクと結婚するようにすすめます。肉体的には既にひそかに関係を結び、妊娠まで
しているというのに、なぜかアンナは結婚をこばみ続けていたのですが、ついに婚約を承諾
することになります。そこで一同が万万才と喜び合い、婚約成立を祝おうと町へ出ようという
段になって,主人公クラーグラーがぼろをまとって亡霊のような姿を現します。ところが
この三角関係を中心にした登場人物たちの対決も、人間的な悲劇の高まりにはほど遠く、
きわめてブルジョア的でかつ小市民的な意気地のないやりとりに終わり、結局はクラーグラー
も結着のつかないままにその場を去ることになってしまいます。このクラーグラーに人間的な
関心を示したのはバーの給仕人マンケと娼婦のマリーでしたが、クラーグラーは連れてゆかれた
正体不明の連中のたむろするバーでアジられて、革命蜂起の列に加わる決心をします。

戦争のためにその愛を奪われた若者が、革命の戦列に加わり、市街戦で勇敢に戦って倒れる
ということになれば、それはそれでひとつの悲劇の成立ということになるのですが、ところが
このドラマはまたまたその劇的高まりに導くことなく、まったくさえない結末へと展開して
ゆくのです。仲間たちと市街戦へおもむく途中でアンナにつかまり、すべてを告白され、行か
ないでと引きとめられ、いとも簡単に仲間たちを捨ててしまうのです。そして他人の子を宿し
た許嫁と共に、ぬくぬくしたベットへと急ぐという始末なのです。

当時の左翼陣営からは「反革命的」という批評を受けたということですが、たしかにこの作品
でのプレヒトはアナーキーでシニックな破壊的な力に流されているようです。しかし1926年
ごろからマルクスの「資本論」の学習を始め、ペルリーンの労働学校の熱心な聴講者になる
など、マルクス主義への歩みと共に、社会や経済の仕組みと実態を踏まえた、ブレヒトの
演劇的試行が展開されてゆくようになります。

たとえば1928年にベルリーンで初演され1年以上にわたるロングランを続けた 
"Dreigroschenoper" [ドライ・グロッシェン・オーパー] 「三文オペラ」は、ブレヒトの名を
世界的なものにしたものですが、ここでは「ブルジョアは泥棒である」というテーゼが、辛
らつな風刺やグロテスクな劇画化のもとに登場してくるのです。これは 1728年に初演された
イギリスのジョン・ゲイの「乞食のオペラ」"The Beggar's Opera" という、社会の底辺の
人間たちも上流社会の人間たちもその生活に違いはないことをあからさまにした社会風刺劇
を、ブレヒト流に改作したものです。この劇には「モリタート」(殺人行為を歌う大道歌)
など、 Kurt Weill [クルト ヴァイル] の作曲による、今ではわたしたちにもおなじみの
ソングが配されております。

しかし1933年2月のナチストたちの国会放火事件の翌日、ブレヒトは亡命の旅に出ることに
なります。この亡命の旅はプラーク、ウィーン、チューリヒ、パリ、デンマーク、モスコー、
アメリカ合衆国へと長くあわただしい旅になりますが、その間にも盛んな創作活動が続けられ
ます。特にブレヒトの完成期の作品のなかでも傑作と言われている "Mutter Courage und ihre 
Kinder" [ムッター クラージェ ウント イーレ キンダー]「肝っ玉おっ母とその子供たち」
も、この間に既に成立しております。30年戦争の戦場を舞台にして、軍隊と共に流れ歩き
ながら、いわば戦争を商売にしている女酒保商人とその子供たちの悲劇を描いています。
これはわが国でも上演されたことがあり、皆さんのなかにもご存じのかたがたがいらっしゃる
と思います。

第二次大戦後のブレヒトは社会主義への道を歩む東独に帰り、絶えず舞台上の実践を通じて、
自らの劇作と理論の深化と発展に努めておりました。彼によって編成され育成された劇団
「ベルリーナー・アンサンブル」(ベルリーン劇団)は、彼の著作と共に彼が残した遺産と
言えるでしょう。
    (2月号)   

             

 

 

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