基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第23巻第1号−第12号(昭和47年5月−昭和48年4月)

会話で犯しやすい間違い
            小塩 節

もう十何年も知り合い、親交を結んでいるだけでなくて腹の底までわかり合っ
ている(と信じ合っている)、あるドイツ人の家庭に、これまた仲良しの日本の
青年を紹介して、しばらく泊めて貰ったことがあります。明るく朗らかな青年で、
しかもたいへん礼儀正しい男です。ある国民の生活と魂を知るには、その国の家
庭の中に入っていかなくてはけっしてわかるものではありません。ホテルやユー
スホステルだけ泊り歩いたのでは、観光はできても、けっきょくうわっつらのか
いなでにすぎないのです。つねづねそう思っていますので、短い滞在予定のその
青年をドイツ人の家庭において貰ったのです。むろん家族一同はとてもあたたか
く彼を迎えてくれました。

けれども、1週間目のおわりごろにたずねてみますと、彼に対する家族の気持
に、なにがフッとかげりのようなものがあるのに気付きました。紹介者であり依
頼者であるぼくを傷つけまいとしてでしょう、マダムはなにも言わないのです。
思いすごしでなければ、どうもおかしいと思う。卒直に言ってくれと頼みますと、
マダムはこう申すではありませんか。「あの青年は信じられないくらい無礼だ」
って。正直言ってビックリしました。「いつもじゃないけど――」。
  "Ja,er ist manchmal unglaublich unhoeflich! "
いったい、どういうことがあったのか。例えばどんなことか、と訊(たず)ねました。
マダムの返事をきいて、改めて驚きました。「彼はわたしを下女のように見くだす
のです」、とおっしゃるではありませんか。さらにくわしく聞くと、なんとまあ、
こういうことだったのです。

青年はむろん旅人にすぎず、独語の専門家ではないけれども、いっしょうけん
めいドイツ語を勉強してきたのです。習いおぼえたとおり、文法的には完全に正
しい文章で、なにか欲しいときに、
  "Geben Sie mir eine Tasse Kafree! "  とか、あるいはまた、
  "Bringen Sie mir ein Glas Tee! "
と頼みました。Sie に対する命令文は、定形を文の頭において "Sie !" と言え
ば、「...してください」という意味になると考えたのは、当然のことです。 しか
し、ドイツ人の耳には、この文型は「命令文」ではあっても「依頼文」ではない
のですね。「…してくださか」、と日本人が動詞を使って表現する「依頼、お願い」
は、ドイツ語では実は、bitte という一語が受けもっているのです。 bitte のな
い上記の文ですと、「お茶持ってきて!」ということになってしまうのです。 Sie
に対してであろうと、あるいはduに対する " Bring mir ein Glas Tee! " で
も同じなのです。どこでもいい、bitteの一語を加えさえすればいいのです。
  1. Bitte, bringen Sie mir ein Glas Tee!
    2. Bringen Sie mir bitte ein Glas Tee !
    3. Bringen Sie mir ein Glas Tee, bitte !
どの形でもいい、[ビッテ]を添えておけば、あの青年はこんなカゲリを生みはし
なかったでしょう。この3行の文にはそれぞれほんの僅かずつニュアンスの差が
ありますが、それはここではどうでもいいことです。書くときには前後にコンマ
を打てば、ぐっと強くなり、読むときも、改めて意識して強く発音しますが、コ
ンマはどの文でも省いてかまいません。「文章構造の違いからきた間違いですから、
どうぞ  bitte、 わかってやってください」と頼みました。もっとも頼み
ごとをするとき、一回 bitte を言えばいいのでして、各文章に毎回繰り返す必要
はありません。あんまり繰りかえすと乞食みたいで、ビッテならぬベットベトの
感じになってしまいます。

もうひとつマダムが言うには、彼は vielleicht[フィラィヒト]という返事ばかり
するのだそうです。「たぶん」のつもりで言っているのでしょう、たぶん。しかし
この vielleicht はけっして「たぶん」と多くの辞典にのっている意味でなくて、
「ひょっとすると、…かもしれない、万が一のチャンスで…かもしれない」
ということなのです。「今晩のワインの集いに来られますか」と誘っているのに、
「ひょっとしたらね」と返事されたら、誰でもムッとするでしょう。 ドイツ語では
ja か nein の黒白を明かにしなくてはいけません。行けるかどうかわからぬと
きは、Ich will es mir ueberlegen。 と言っておいて Ich rufe Sie nachher an。
とか何かそえて申すとよろしい。会話の中で、返事に vielleicht はつかわない、
と覚悟しておいたほうが報難です。言葉って、難しい用語や文体の誤りは気にす
ることはありません。なにげない、こんな小さなことばが大切なのですね。マダ
ムは判ってホッとしていました。
    (1月号)   

      

マンの魔の山と菩提樹
          小林栄三郎

Thomas Mann [トーマス マン] の作品 
"Der Zauberberg" [デア ツァオバーベルク]
「魔の山」は、第一次世界大戦のためにその執筆が
一時中断されましたが、やがて完成されて1924年
の秋に出版されました。この物語の舞台となって
いるスイスのダヴォスは、当時ヨーロッパの結核
療養地として名高く、作者トーマス・マンも
1912年に、肺尖炎のために療養生活をしていた夫人
を見舞って、3週間ほどこの地に滞在しているの
です。最初トーマス・マンは、結核という長い時間
をかけながらも死へ向かって徐々に肉体を分解して
ゆく病気の影響による、人間たちのさまざまなグロ
テスクな戯画化を、一つの短編小説にまとめる
つもりでこの作品の創作に取りかかったようです。
ところが、作者によって「ひとりの単純な若者」と
呼ばれる主人公 Hans Castorp [ハンス カス
トルプ] が、このスイス・アルペンの高地で療養し
ている従兄弟を見舞うために予定していた3週間の
滞在が,自分自身も結核に冒されていることがわか
って、7年間にもわたる滞在をすることになったと
同じように、この物語は結局は原文で1200ページに
もわたる大長編小説になってしまったのです。

この物語の第1章の「到着」のくだりに、アルペン
の谷間を縫うように急勾配の上りを機関車に引かれ
てあえぐように登ってゆく情景が描かれています。
こうして登っていった高地で、ひとりの単純な青年
であるカストルプは、平地での健康な市民生活では
想像もつかなかったような、精神と肉体のさまざま
な冒険を経験することになります。平地での気圧の
下では潜在化していた病気が、この高地の希薄な
そして澄んだ空気の中で顕在化するように、そこに
はヨーロッパの歴史のさまざまな精神が戯画化され
て登場してき、生と死、健康な市民生活とデカダン
スがさまざまな形姿となって展開しているのてです。
やがて第一次世界大戦という事件によってその根底
をゆさぶられることになるヨーロッパの歴史が、
この物語の中で展開しているさまざまな人物と観念
の華麗なる構図のうちに、その戯画化された縮図を
見出していると言えましょう。

なかでもヨーロッパの啓蒙精神の教育者にして人文
主義者のゼテンブリーニと、浪漫的な絶対的精神へ
の服従と自我の否定、個性的人格と自由の抑制を
説く神秘主義者にしてジェスイット会員のナフタは、
共にこの単純な青年カストルプの教育をめぐるライ
バルとして,痛烈に相手をやっつけあいます。その
果てには、この両者の間に決闘という事態がもち上
がり、結局は神秘主義者ナフタが自らの命を絶ち、
啓蒙的人文主義者ゼテンブリーニがこの青年の教育
者をもって自らを任じることになります。またこの
間には、スラブ的異国的な魅力と魔性の甘美さで、
この青年を魂と肉体の冒険へと誘う女性クラウディ
ア・ショーシャが登場してきます。

しかし市民社会の実生活から遊離しているこの「魔
の山」での生活で、青年カストルプの心をむしばむ
危機は、始まったと同時に終わったも同然の、日々
のきまりきったことがらに乗って変化も進歩も内容
もなく流れてゆく生活の中で、健康な時間感覚が
麻ひし失われてゆくことでした。ゼテンブリーニが
カストルブに特に警告したのも、この時間を喪失し
た「魔の山」での酔生夢死の内に日を送る亡者たち
のひとりになるなということでした。ゼテンブリー
ニはカストルプに、この高地での生活に見切りを
つけて、平地での市民生活に復帰するよう説いて
やみません。しかしこの単純な青年の心は、この
「魔の山」に生起する出来事や去来するひとびとの
間で、いつの間にかこの山の魔力にとらわれてしま
っているようです。あっという間に7年の歳月が過
ぎ去り,完全にこの「魔の山」に集まる亡霊のひと
りになってしまったように見えました。

ところがそのとき、この「魔の山」の世界を驚かし、
揺り動かした大事件が平地に起こったのです。
第一次世界大戦の勃発です。それは文字通り青天の
へきれきのように、この高地のひとびとをパニック
におとし入れました。それは20世紀初頭のヨーロッ
パの行き詰まった歴史にとって起こるべくして起こ
った事件とも言えましょう。いずれにしてもそれは
ヨーロッパの精神と文化の根底からの崩壊という、
目に見えないところで進行していた過程が今や現実
の事件として顕在化したということです。「魔の山」
の世界もこのヨーロッパ全土をおおったパニックの
波におそわれます。われわれの主人公ハンス・
カストルプはどうしたでしょう? この人生の厄介
息子であると同時にまた誠実な青年は、彼の7年間
にわたる精神の冒険の夢からさめ、敢然として戦乱
の平地へと降りてゆき、祖国の運命に参加すること
を決意するのです。ゼテンプリーニは何かとてこず
りながらも愛し続けてきたこの「単純な青年」が、
今やっと「魔の山」を降りて平地での市民の義務へ
帰ってゆく決心をしたことに感動し、涙の浮かぶ目
で見送るのです。

こうしてこの物語「魔の山」は終わるのですが、
作者トーマス・マンはこの愛すべき「単純な青年」
ハンス・カストルプが戦線の砲煙のただ中を、銃を
かかえて泥土にころびながら進んでゆく姿を最後
に、この青年と別れを告げます。その時、作者は
あえぎあえぎ進むカストルプの口からかすかに切れ
ぎれに聞こえてくることばをわれわれに伝えて
くれます。それはあのだれもが知っているシューベ
ルトの「菩提樹」だったのです。
    (1月号)   

             

 

 

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