基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第23巻第1号−第12号(昭和47年5月−昭和48年4月)

オペラへの招待
            荒井秀直

これから6回にわけてオペラのことを書くことに
なりました。ドイツ語の雑誌にオペラのことを書く
なんて、いささか場ちがいだという感じがしない
でもありませんが、世界中でオペラが一番さかん
なのはイタリアやフランスではなく、ドイツ・
オーストリア・スイスのドイツ語圏だということに
免じてゆるしていただくとしましょう。

ところで,オペラとは歌をうたいながら劇をすすめ
てゆくものだとお考え下さって結構です。音楽も
演劇も大好きだがオペラはどうもいただけぬという
方はたくさんいます。だいたい人間が歌をうたい
ながら動作するなんてまことに不自然で、とても
馬鹿馬鹿しくて見ていられない、というのがオペラ
をけなす方がたの大きな理由でしょう。この批判は
もっともなのです。たしかに歌う人間なんてあり
得べからざるがごとしです。しかしそれは舞台の上
の出来事と実際の生活とを一緒にするからで、そう
いう意味でならオペラだけでなく、演劇にも不自然
な要素はそれこそたくさんあります。つまり歌に
してもお芝居にしても現実の人間を具体的に合理的
にあらわしているのではないのです。人間という
ものをあらわす手段として音楽もあり芝居もあり、
その他もろもろありということです。オペラは、
音楽だけあるいは演劇だけが与える感動とはまた
別のものを我々に与えてくれます。音楽と演劇との
結合は実は古代からあったのですが、これはオペラ
の発生とは別物です。しかしここでこの問題に深く
立ち入るのはやめましょう。

音楽と演劇の結合は,当然それに伴ういろいろな
芸術を総動員して豪華絢爛たる舞台芸術として発達
してきました。この芸術の寄り合い所帯をどう
まとめるか、それは時代により国によりちがって
います。19世紀の中頃にリヒアルト・ヴァーグナー
(Richard Wagner) が一切の芸術を綜合する楽劇
(Musikdrama) の理論をたてました。彼が自分のこの理論
をどれほど信じていたかはだいぶあやしいのですが、
とにかく自分の作品だけを上演する劇場をバイロイト
(Bayreuth) に建て、1876年に舞台祝典劇と名づけた
「ニーベルングの指輪」(Der Ring des Nibelungen) 
全四曲の上演で幕をあけました。これがドイツに
おけるオペラ・フェスティバルの最初です。1882年
にここで初演されたパルジファル (Parsifal) は舞台
聖祓劇とよばれ一種の宗教的行為として扱われ
ました。ミサ曲やオラトリオなど宗教音楽は世俗の
音楽とちがって、劇場で演奏されても教会で演奏され
ても曲が終わってから拍手しないことになっています
が、このパルジファルも拍手を受けません。ずいぶん
勿体ぶった物々しいやり方だと思いますが、それが
あまり抵抗なく受け入れられるのは、ひとつには劇場
というものの考え方が私たちとちがうということも
あるでしょう。私たちは劇場とは娯楽場、社交場
くらいにしか考えていませんが、ドイツの文学者の
中には、劇場とは教育の場、国家的行事を行うところ、
教会とひそかな絆で結ばれているところ、などと
考えている人たちがかなりいます。一般市民の劇場に
対する関心も想像以上に高く、彼らは劇場をみんなの
ものとして大切にします。今から10年前のミュンヒェン
で、戦災にあったオペラハウスが装いを新たにして
再開したときのことです。新装開場の記念講演会の
だし物を何にするかについて新聞紙上に市民のいろいろ
な意見がのり、それがどう決まるかはみんなの関心の的
でした。結局初日はヴァーグナーの「ニュルンベルクの
マイスターズィンガー」 (Die Meistersinger von
Nuernberg) と決まりましたが、この入場券が何と
5万円! それがとぶように売れるのです。招待日には
国の内外からいろいろな人が続々とつめかけ、劇場の
まわりにはその人たちを見ようとするやじ馬でいっぱい
です。オペラハウスの再建はバイエルン州あげての行為
なのです。ドイツでは9月から翌年6月いっぱいが
シーズンで、大都会では毎日オペラが上演されています。
その上、春から夏にかけてベルリン、ミュンヒェン、
ザルツブルク、バイロイト、ウィーン、ヴィースバーデン
などで音楽祭が催され、世界各地から有名な歌手が集ま
ってきて競演します。つまり一年中オペラがきけるのです。
ミラノのスカラ座の公演は12月から6月まで、それも
毎日ではありません。私はヨーロッパへ行かれる方々に
ぜひオペラを見るようにとすすめることにしています。
ミケランジェロの描いたシスチナ礼拝堂の天井画を
どんなに立派な画集で見ても、あのおおいかぶさって
くるような圧倒的な迫力は生まれてきません。オペラにも
レコードできくのとはまったくちがった劇場の雰囲気と
いうものが不可欠です。歌舞伎をごらんになる方なら、
劇場内の空気がピンと張って息苦しくなるようなあの緊張
の瞬間があるのをご存知でしょう。劇場における何とも
いえぬダイゴ味という点ではオペラも歌舞伎も同じです。
実際歌舞伎や文楽は見事な楽劇です。

では前口上はこのくらいにして、次回からオペラに関する
もろもろのことをお話いたしましょう。
    (11月号)   

      

ごめんなさい
            小塩 節

世界中で日本人くらい「ごめんなさい」、「すみません」とあやまりのことばをよくロに
する人種はないだろうと思います。タバコ屋にタバコを買いに行って、「すみません、
ホープひとつ」と言い、八百屋で「すんません、キャベツひとつ」と頼むと、おつりを
渡しながらお店の人も「はい、すいません」と言う。ちっとも「すまない」なんて思って
はいないのに、そう言うくせになっています。社会生活の潤滑油が「すみません」なの
ですね。

「ごめんなさい」のほうが、「すみません」よりも、もう少し本心が入っています。しか
し、これもよく使いますね。そして実際悪いことをしても、しおたれ、しょげてみせて
「ごめんなさい」と言えば、裁判所でも有利です。 ドイツ人、いや、ヨーロッパ人は
一般にこういったお詫びを言わない人びとです。もっと徹底しているのはアラブの人で
しょう。カイロのレストランで、偶然同席した見知らぬアラブ人がこちらのカメラに手を
出し、下におっことしてブッコワす。彼は両手をひらき肩をすぼめて、「おお、アラーの
神はかくなしたまえり」と言うだけでした。これにはまったく呆然としました。

アラブが「あやまらない」最左翼の民族だとすれば、すぐあやまる最右翼が日本人で、
その中間がドイツ人というところでしょうか。もっとも最近の日本人は、だいぶアラブ化
してきましたが――。それでもドイツ人と日本人は違いますね。

そう、こんな思い出があります。雪で国鉄がおくれたことがあります。駅でアナウンス
がありました:"Achtung!  Der D-Zug nach Hamburg um 17 Uhr 30 hat 2 Stunden
Verspaetung!" 「ご注意! 17時30分のハンブルク行急行は、2時間遅れます」。
それっきり。ご迷惑をおかけしますが、とか、一言すみません、とは言わないのです。
日本から着いたばかりで血の気の多かったぼくは駅長に喰ってかかりました。なぜ
「ごめん」 Entschuldigen Sie! を言わないのかって。相手はキョトンとしていました。
なぜ言わなくてはいけないのですかと、逆に質問してくるではありませんか。もし
[エントシュルディゲン ズィー] Entschuldigen Sie! と言うとすれば、それは
あきらかに「わたし」に責任のある場合に限るのだ。雪で列車がおくれてるんで、
わたしのせいではない。わたしが「ごめん」と言ったら、自分の財布で弁償しなくては
なりますまい、というのでした。

− またあるときミュンヒェンで日本人留学生が雨の夕暮、往断歩道を渡っていて車に
はねられました。病院に担ぎこまれた彼は、ふと目をあけ、おまわりと看護婦を見上げ
「いろいろおさわがせして」というつもりで[エストシュルディグング] Entschuldigung!
とひとこと言って、息をひきとりました。おかげでひいたドイツ人は無罪。ひかれた
日本人の遺族は、裁判でも「自分に非があったと認めた」ということで保険金もとれ
ませんでした!

こういうわけで「ごめんなさい」の使い方には気をつけなくてはいけないのです。
所かわれば品かわるで、人の身体にさわったり、さわりそうになったら、あやまら
なくてはいけない。日本の通勤電車は世界に類のないしろもので、あの酷電(こくでん)
に乗ったら、「ごめん」なんて言ってはいられない。そのくせがついてるから、外国旅行
しても日本人は人につきあたろうが、肘がふれようが知らん顔。それで評判をおとします。
日本人は野蛮人であると。そこで、簡単に段階をつけて「ごめん」を記しますと:

(1)人に身体がふれたり、ふれそうになったら:[パルドン] Pardon!

うしろにアクセントをおき、[オン]を鼻にかけて言います。フランス語から来たのです。
次に、人に道をきいたり、ものをたずねるときには:

(2)失礼ですが、ちょっとごめんなさい: Entschuldigen Sie!

これは、待ち合わせにおくれてごめんなさい、というときにも使います。さてこれより

もう一段程度あがって、実際に相手を痛い目にあわせたり、悲いことをした、という自覚
がつよいときは:

(3)お許しください:[フェアツァイエン ズィー]  Verzeihen Sie!

いずれも、心をこめていうときには[ビッテ] bitte!をそえて言います。急の場で、
いそいで言わなくてはならぬときには、こんなに長く言っていられませんから、(2)と(3)
をそれぞれ短縮して、名詞で[エントシュルディグング] Entschuldigung !、[フェルツァイ
ウング] Verzeihung ! といいます。これらへの返事は "Bitte!" です。
    (11月号)   

             

 

 

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