基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第23巻第1号−第12号(昭和47年5月−昭和48年4月)

ドイツ語と私
            望月市恵

私が旧制の松本高等学校へ入学したのは、
大正9年であって、文科甲類(英語を第一
外国語にする組)を出て、大学で法律を勉
強するつもりであったが、入学試験の成績
が文甲へはいるには不足していて、文科乙
類(ドイツ語を第一外国語にする組)へま
わされた。それさえも、入学試験にカンニン
グをして、辛うじてはいれたらしい。英語の
書き取りの試験で、時間が終わって、「全員
起立!」と命じられて、起立した時、斜め
横の受験生の答案を見るともなく見たら、
especiallyと、 l が二つになっているのに、
私のは、 l が一つしかない。今の私にはで
きそうもない敏捷さで、左手で鉛筆を持っ
て、l の字を一ついそいで付け加えた。こ
の l が、私の一生をきめてしまったと思っ
ている。

私の父親は、私が医者になって、
金をためてほしいと願っていたが、患者の
腹を切った医者が、その血を見て気絶して
しまったら、大変だろうと思って、医者に
なるのは、やめにした。いまも、やめてよ
かったと思っている。

高等学校では、ドイツ語が1週間に
9時間ぐらいあった。佐久間政一
という第二高等学校(仙台)の先生
のドイツ文法書を使っていて、当時は字が
すべてゴチック文字(亀の甲文字)であっ
た。最初の文法の時間に、発音を教えられ
て、その時間の終りに、文法書の巻頭の発音
のためについている文例を書き取らされた。
Das Pferd zieht den Wagen. という文章
ではじまっていた。私はなにを書いたのや
ら、とにかくさんざんな結果だったらしい。

しかし、ドイツ語はすきになって、だいぶ
勉強もして、ゲーテの Die Leiden des
jungen Werthers や、ショーペンハウアー
の Die Welt als Wille und Vorstellung
の上巻などを読み、当時印刷で出ていた
「創作」という同人雑誌へ、クライストの
Das Kaethchen von Heilbronn の第一幕を
訳してのせてもらったりした。あとで、い
まは故人になられた、立教大学でドイツ語
を教えていて、源氏物語の自作を上演した
ことのある番匠谷英一先生に、「君が高校生
のころ訳したクライストの劇を読んだこと
があります。」と言われて、まっかになった
ことがある。めくら蛇におじずとは、よく
いったものである。

松本高校時代に印象が深かった教科書には、
ゲーテの Bekenntnisse einer schoenen Seele や
クライストの Das Erdbeben in Chili などを集めた
短編集があった。同じ日に、同じ先生の同
じ教科書の授業が2度あることがあって、
前の時間にも指された私が、また指されて、
Ach! と読みはじめたら、同級生たちがみ
んな笑い出し、先生までが笑い出して、私
だけがきょとんとしてしまったことをおぼ
えている。「少女は醜いです」をドイツ語で
いうように指されたときも、Das Maechen
ist haeβ1ich. といわずに、Das Maechen ist
schmutzig. とやって、みんなに笑われた。

卒業する前の冬に、いま千葉の麗沢大学で
ドイツ語を教えている藤野義夫さんから、
中華料理の焼き蕎麦をおごってもらって、
下宿先の小さなお寺へ、2人で帰るとき、
頭上の夜空にオリオン星座がつめたく光っ
ていた。

松本高校を大正11年に出て、私は東大の
独法科の入学試験を受験するつもりだった。
しかし、ある夜2、3人の同級生がやって
きて、「ぼくたちは東大文学部のドイツ文学
科へ行くつもりだが、君も法科をやめて、
ドイツ文学科へはいらないか」とすすめら
れ、たちまち志望を変更してしまった。当
時東大では、法科は入学試験があり、文学
部は入学試験がなかったのが、志望変更の
大きな理由だったらしい。東大のドイツ語
科へ、松本高校から行ったのは、全部で8
人であって、松本高佼のドイツ語の先生は
「どうして生きるつもりだろうか」と首を
ひねったらしい。

この8人のうちで、ドイツ語科を卒業
したのは、前記の藤野さん、学習院長を
している桜井和市さん、いま広島で
悠々自適している原田和三郎さんと私
との4人だけで、あとはドイツ語科の先生
のきびしさに負けて、文学部の他の科へ移
ってしまい、私に方向転換をさせた同級生
も、美学に移ったが、のちに太平洋戦争に
引っ張り出されて、フィリッピンで戦死し
てしまった。

ドイツ文学科の主任教授の上田整次先生
は、きびしい先生であった。「そこの眼鏡
をかけている、髪の長い男、訳して見て。」
と命令する先生の声が、まだ耳にのこって
いる。読み方がまずいと、そのまま立たさ
れていて、50分の授業時間に、5、6人の学
生が立たされたこともあり、松本高校から
ドイツ語科へはいった8人も、4人になっ
てしまった。いまの流行語でいうと、「人権
蹂躙」というのである。

ところが、一度先生のお宅へ卒論の相談
にお伺いして、恐縮したことがあった。
私はお座敷の上座へ坐らされて、
上田先生は、下座へぴたりと正坐され、
お嬢さんが高坏(たかつき)へ白紙を敷き、
その上へ紅白の大きな丸い落雁をのせたのを、
私の前へ置いてくださったのであった。先
生は、クライストのローベルト・ギスカール
とシェークスピアの劇というテーマを卒論
に与えてくださって、参考書のかずかずを
教えてくださった。私はその参考書を何冊
も、日本橋の丸善へ注文して、代価の40円を、
ふところにしっかりとしまいつづけていた。

ある日、従兄弟たちと浅草へ遊びに行って、
金が足りなくなり、私は虎の子の40円を出
してしまった。一緒に行っていた姉が、「こ
の人たちに貸したら返ってきっこないか
ら。」としきりにとめたが、この予言は、
悲しいことにほんとうになって、丸善から
参考書の到着を知らされても、引き取りに
行けなくて、上田先生のところへ、恐る恐
る伺候して、一部始終を白状して、卒論の
テーマを変えていただけないかと申し出た
ところ、先生は「いまごろになって、そん
なことを言ってきても、知らんぞ。」とい
われたが、新しいテーマを与えてくださっ
た。 しかし、それから間もなく先生は、脳
溢血で急逝されて、青木昌吉先生が、あと
をつがれた。

東大での教科書のなかで、最も印象に
のこっているのは、シラーの Die Braut 
von Messina である。同級生のなかで、
ピンに高橋健二さんがおり、私はクラス
でキリであった。上田先生が生きて居
られたら卒業できなかったにちがいない私
は、大正14年にどうやら卒業させてもらえ
て、桜井和市さんと一緒に、静岡高等学校
に赴任した。

2人は、静岡で千代田町という通りの
下宿に止宿したが、その下宿には、
多くの静高生が下宿していて、私たち2人
は、暑いのに障子を、のこらず閉めきって、
Sanders の辞引きと首引きをしたものであ
る。読むときは、それほどでなくても、い
ざ教壇に立つとなると、どの単語も辞引き
で確かめずにはいられなくなる。わけても、
赴任した年度の教科書は、あちらまかせで
あって、その1冊が Grillparzer の Der
arme Spielmannであって、その小説に出て
くる Wien の Prater の雑踏が bedenklich
であるといっているところがあった。この
bedenklich の意味が、どうしてもわから
なくて、誰に相談しても、分らせてもらえ
なくて、弱ったことがあった。この教科書
は、文甲で教えたが、そのクラスの生徒た
ちからは、ずいふんいじめられた。静岡に
は、3年間いたが、ここでドイツに、トー
マス・マンという作家がいることを、はじ
めて知った。この作家の短篇集「トリスタ
ン」を読んだが、ちんぷんかんぷんであっ
た。

事情があって、昭和3年に上京して、
ある私立大学の工学部予科で、ドイツ語を
教えることになったが、ドイツ語は第二外
国語であったし、クラスが8つもあって、
ここの10年間はあまり楽しくなかった。こ
こをやめて、外務省の嘱託になって、ドイ
ツ大使館からくる口上書などを訳して、3
年間を送った。

この3年間に、日本は真珠湾を奇襲した。
私は銀座の喫茶店で、外務省の同室の人た
ちとコーヒーを飲んでいて、奇襲のことは、
そこのラジオで聞いた。やはり外務省の嘱
託をしていて、のちに早稲田大学で、ドイ
ツ語を教えていた島村教次さんが、「たいヘ
んな国と事をかまえたものだ」とぽつんと
言ったが、おっちょこちょいの私などは、も
う米英鬼畜という考えに躍らされていて、
この世には、天使もいないかわりに、悪魔
もいないことを忘れていた。

外務省へはいるときも、常木実さんの
お力にすがったが、外務省にいるときに、
相良守峯先生の独和辞典を博文館で手伝った
のも、常木さんの口ききだったように
おぼえている。あの辞典は、
木村相良独和辞典となっているが、
相良先生は毎日博文館につめきりで、下に
15、6人の東大文学部のドイツ語科の卒業
生が、助手として働いていた。

私が校正のお手伝いをしたのは、
最後のほんの2か月ほどのことであるが、
あの辞典は、何年もの努力から生まれている。
私たちが、ドイツ語を学んだころには、
いま東大文学部のドイツ語科の主任教授を
しておられる登張正実さんの厳父で、
当時仙台の第二高等学校の教授をして
おられた登張竹風先生が、著わされた
独和辞典が、唯一の辞典であった。

私が外務省にいるころ、真鍋良一さん
や常木実さんは、外務省の調査第二課(ド
イツ関係)におられたが、真鍋さんは、嘱
託の私とは違って、歴とした調査官であっ
た。その真鍋さんが、ドイツヘ何度目かの
旅行をなさるというので、相良守峯先生と
真鍋さんと私との3人で、赤坂の料亭で食
事をしたことをおぼえている。

外務省から立教大学へ移ったが、
移るにあたって、外務省の人たちが、
銀座裏の小料理店で、送別会をやって
くださって、私がまた教壇ヘ戻るのを
祝ってくださった。そこへ、山本
五十六大将がやられたという悲報が、とび
こんできて、みんな暗澹とした気持になった。

立教大学へは、カロッサのDer Arzt
Gion の名訳を遺された石川練次さんの後
任として赴任したが、前任者の石川さんが、
あまりにも生徒間に人気があって、後任者
の私は、はじめ苦労をした。

三鷹にあった中島飛行機製作所へ、
勤労奉仕の生徒たちの監督に行かされ、
又1週間に1回ぐらいは、
5名の先生で宿直をやらされたが、あ
る夜は5名ともぐっすり眠ってしまって、
翌朝になってから、小使さんにゆうべの空
襲のことを聞かされて、びっくりしたのだ
から、まことにたよりない宿直であった。
浅草方面が焼かれた夜も宿直であったが、
学校の屋上から見る浅草方面は、火の海で
あって、火だるまになった飛行機が、頭上
すれすれに飛んできた。宿直は寒くて、チ
ャペル(礼拝堂)のりっぱな木製のベンチ
を壊して、ストーブを燃やし、終戦後これ
がアメリカの人たちから問題にされたとい
う。

私は、立教大学をやめて、郷里の長野
県へ引込むつもりになり、郷里の町の旧制
の中学校で、国文をやることになったが、
校長さんに会っただけで、教壇には立たな
くてすんだ。私の国文の授業は、どんなだ
ったろうと、やらなくてよかったと思って
いる。

終戦になって、再び上京して、こん
どは第一高等学校の講師として、ドイツ語
を秀才たちに教えていた。 ドイツ語科の主
任教授は、立沢剛先生という有名な碩学の
先生で、たびたびこの先生に連れられて、
あの広大な駒場の構内を散歩した。先生は
私に、教場へ行くのが早すぎると小言をい
われた。1時間半の授業時間中、はじめの
15分間はぐずぐずしていて、終りの15分間
は、早く切り上げてしまえというのである。
とんでもない主任教授があったものである
が、語学は習う熱意さえあれば、授業時間
の多寡などは、どうでもいいということら
しい。

昭和21年の春から、郷里にある松本
高等学校へ移り、第一回生の私は、こうし
て振り出しに戻った感じであった。私が松
本高校へ赴任したとき、すでに北杜夫さん、
辻邦生さんがいたし、松本高校がなくなる
最終年度に小塩節さんがいた。当時私は、
彼女、かれらの sieをジーと読んでいて、
小塩さんに、蝉の鳴声のようだと、不精を
なじられた。

医者になりそこね、法律学者
になりそこね、ドイツ語の教師になってし
まったが、これは、日本の医学界と法学界
とにとって、いいことだったろう。 ドイツ
文学界にとっては、さてどうだったろうか。
    (10月号)   

      

曜日名の由来
            橋本文夫

ドイツ諸民族や北欧諸民族などを包含するゲルマン人は、紀元前から独自の曜日名をもって
いたのですが、4世紀になると、ローマ人から,太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星
をつかさどる神々の名に因(ちな)んだ曜日名を受け継ぐようになりました。それは
バビロンの暦法の七曜制が、ユダヤ人、ギリシア人、ローマ人を経て伝えられたものなの
ですが、ゲルマン人はこれらギリシア、ローマの神々の名をそれに対応するゲルマン神話の
神々の名で言い換えて、ゲルマン人固有の曜日名に転じたのが大部分です。ところで、ドイツ
民族の曜日名、すなわちドイツ語の曜日名は次のとおりです。
  1.日曜日 der Sonntag [ンターク]
     これは der Tag der Sonne「太陽の日」の意で、Sonne+Tag からできたもの
     です。 英語 Sunday も同じ構造であることは、一見して明らかですね。
     古代ローマ人の言語であったラテン語では Solis diesーリス ィエース」
     (Solis「太陽神の」 dies「日」)ですが、キリスト教がこれを「主[イエス]の日」
     (ラテン語では dominica [ドミニカ] diesdominica「主の」)と改称しました。
     この dominica から転じたのが、仏語の dimanche [ディーンシュ]「日曜日」
     です。
  2.月曜日 der Montag [−ンターク]
     der Tag des Mondes「月の日」の意で、Mond+Tag からできたものです。
     英語の Monday も同構造であることは言うまでもありません。
     仏語 lundi [ィ] はラテン語の Lunae diesーナエ ィエース」
     「月神の日」と同系列です。英語の名称がドイツ語の名称と似ているのは、
     どちらも元来ゲルマン語に属するからですが、仏語はゲルマン語に属さず、
     イタリア語やラテン語と同系のローマン語に属するために、英語やドイツ語の
     名称とはたいへん異なったつづりになっているのです。
  3.火曜日 der Dienstag [ィ−ンスターク]
     Dienst[ディ−ンスト] m 「奉仕」「勤務」とは関係ありません。2つの語源系統
     が合致してできた語です。1つは Ding [ィング] n 「集会」「裁判」を
     守護する軍神に捧げられた日 (Dinges+Tag)、もう1つはゲルマン神話の軍神
     Ziu [ィーウー] の日 (Zius Tag) で、Ziu が前記守護神と同一視されて合体
     したのが Dienstag です。英語の Tuesday は、同じ Ziu が古く Tew とか Tiw
     とか呼ばれていたことによるものです。ローマ神話の軍神 Mars [ルス]
     (火星に対応)から来たのが、仏語の mardi [ィ] です。
     また Mars に相当するギリシア神話の軍神 Ares [ーレス] から由来する
     Er[ch]tag [ル(ヒ)ターク] m というドイツ語の名称もあります。
  4.水曜日 der Mittwoch [ットヴォホ]
     ゲルマン神話の主神 Wodan [ォーダン] の名をつけて、もとは Wodanstag
     と言ったのですが、キリスト教がこの名を嫌って、「中週」(週の真中)
     という表現法を案出しました。それを独訳したのが Mittwoch (Mtte+Woche)
     です。 英語の Wednesday は Wodanstag と同系です。仏語 mercredi 
     [ルクルィ] はローマ神話の商業神 Merkur [メルーア] (水星に対応)
     から来たものです。
  5.木曜日 der Donnerstag [ンナースターク]
     Donner [ンナー]  m は「雷」です。ゲルマン神話の「雷神」Donar [ドナル;
     ドーナル] の日ということです。 英語の Thursday は雷神 Donar の
     北欧名 Thor [トーア;ソーア] にちなむ Thor's day の意です。仏語の
     (jeudi [ィ] は、ローマ神話の雷神としての主神 Jupiter
     [ユーピター](木星に対応)(2格は Jovis) の日、つまりラテン語の
     Jocis [ーヴィス] dies から転来したものです。また Pfinztag [プィンツ
     ターク] (pfinz- は「5番目の」の意) ともいいます。
  6.金曜日 der Freitag [フイターク]
     前記ゲルマン神話の Wodan の妻である愛の女神 Freia [フイアー] の日
     ということです。
     Freia はローマ神話の美の女神 Venus [ェーヌス](金星に対応)と同一視
     されていました。 仏語の vendredi [ェンドルィ] は Venus の日という
     ことです。
  7.土曜日 der Samstag [ムスターク] または der Sonnabend 
     [ン・[ーベント] 
     ユダヤ教の「休日」を Sabbat [ッバット] m といい、Sabbat の日
     というのが Samstag です。「日曜日」Sonntag と「前夜」 Abend からできたのが
     Sonnabend ですが、なにも土曜日の夜だけでなく、土曜日は朝から Sonnabend
     なのです。仏語の samedi[ィ] は Samstag と同系です。
     英語の Saturday はローマ神話の農業神 Saturnus [ザゥルヌス]
     (土星に対応)から来たものなのです。
        (10月号)   

             

 

 

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