ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。
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セバスティアン ブラント「阿呆船」 尾崎盛景 今年,ネーデルランドの画家 ペーテル・ブリューゲル Peter Bruegel (152?―1569)の版画展がわが国で開かれ ました。これからも各地を廻るそうですが 本誌が出る頃には名古屋か福岡に行っている はずです。着想の妙、大胆な諷刺、奇怪な 寓話、銅版画の精緻(せいち)と技巧に驚かせら れますが、同時に16世紀という時代を知る 上にもたいへん興味深いものがあります。 そのブリューゲルが活躍する50年ばかり前、 15世紀の末、1449年にスイスのバーゼル Basel で Das Narrenschiff [ダス ナレンシフ] 「阿呆船(ぶね)」(現代思潮社)という諷刺詩が出版 され、ヨーロッパ各地で、たいへんな人気 を呼びました。その諷刺詩の描く世界もブリューゲル の世界にひじょうによく似ています。 「阿呆船」にもたくさんの版画が添えてあり、 その一部はドイツの巨匠 Albrecht Duerer 「アルプレヒト デューラー」(1471-1528) の手になるものといわれています。そういえば 「デューラーとドイツ・ルネッサンス展」 も開催されているはずです。「文字を読む ことができぬなら、あるいは文字がきらい なら、版画の中の姿見て、どいつが 誰で、誰に似て、誰がいないか見るがよい。 阿呆鏡(かがみ)と申そうか、自分の阿呆がよく わかる。」と詩人も歌っていますが、ドイ ツ語が読めなくても版画を見ているだけで もけっこう楽しめます。 この版画は「何呆船」の中のものですが、 豚をなんとかしてかまの中へ入れようと苦 心している阿呆が描かれています。何かと いうと集まって人を裁き、他人に無実の罪 を着せようとする当時の風潮を諷刺したも のです。いつかは自分も同じ豚になるのも 知らぬようです。「自分がはかった物差し で今度は自分が裁かれる」と詩人が歌って います。次頁の版画はブリューゲルのも の「酔っぱらいは豚小星に入れられる」と いう表題がついていますが、酔っぱらいよ りも、それを豚小屋に押し込めようとして いる群衆のほうが妙に興奮しているのが 印象的です。これもおそらく同じテーマを扱 ったものでしょう。 人間、自分が阿呆であることを知ること が大切です。落度や欠点のない人はいませ ん。俺は阿呆でなくて賢者だ、などとまじ めになって言える人がいるでしょうか。仲 間の失敗や阿呆な行為を見ると「彼らはわ れわれとは無関係だ」などとうそぶく人た ちがいます。どうして無関係なのでしょう。 われわれだって同じ阿呆なことをしている かもしれません。そうでなくても同じよう な阿呆な行為をいつしないとも限らないで はありませんか。われわれの中にもたくさ の阿呆が住んでいます。阿呆鏡に自分を うつしてみましょう。 読みもしない本をやたらに集め、蝿一匹 にも触れさせないことがご自慢のつんどく 阿呆、子供を倍も阿呆にする教師を血なま こで探す親馬鹿、自分の悪事を子供にまで つがせようとする老いぼれ阿呆、ミルクは いかがと胸をはだけ、頭に妙なものをつけ て化物のようにうろちょろする女ども、も じゃもじゃ頭にしらみを養殖し、でかいい ちもつではち切れそうなズボンをはいた伊達 (だて)男、市場で兎を買って帰るまぬけな ハンター、昼が先か、夜が先か、つまらぬ 議論に明け暮れるおえらい学者、外国へ行け ばえらくなったつもりで、かっこ鳥で飛び たって阿呆鳥で帰って来る留学生。「阿呆 船」はそんな阿呆を満載して「阿呆郷」ヘ 船出をします。乗り切れないで泳ぎつこう とする阿呆も数知れません。「阿呆船」の 作者は Sebastian Brant [ゼバスティアン ブ ラント](1457-1521)というシュトラースブルク Straβburg(今の仏領シュートラスブール) 生まれのドイツ人で、バーゼルで活躍した 法学者です。「阿呆船」はいわば 啓蒙的教訓詩ですが、聖書やことわざ、それに 当時その研究がさかんになって来たギリシア、 ローマの古典作家の作品などを自由に駆使し、 みごとな諷刺の世界を展開しています。 解放された時代、極限に追いつめられた とき、人間は特に阿呆な行為をします。ルネ ッサンスはある意味で解放された時代だっ たといえましょう。そうした時代の狂態が 「阿呆船」に反映しています。 ブリューゲ ルの時代は宗教改革の時代で、新旧両派の 激しい争いが極限に達し、みにくい阿呆な 行為に発展していった時代です。「阿呆船」 にはまだ明るい笑いがありますが、ブリュ ーゲルの版画はかなりグロテスクで暗いか げが濃厚です。追いつめられたときの阿呆 な行為は取りかえしのつかないことになり かねません。よくよく自分の阿呆な姿を見、 笑える余裕を持ちたいものです。 (8月号)
カール・ヒルティ 小塩 節 《いずれにおいても、愛をこめて真理のために責任を担うこと、 これが本来、我ら日常の実践的な生活の課題である》。 ― 『眠られぬ夜のために』I, 9月24日 カール・ヒルティ Carl Kilty (1833年−1909年)は、いわゆる大思想家・哲学者では ありません。19世紀スイスの法律家であったに過ぎません。生活も目だたないもので、 むろん国際社会に名が知られるはずもない人でした。けれどもほんとうに不思議なこと に、この人の書いた何冊かの書物は、わが国でも明治以来、知る人ぞ知る,実に多くの 青年たちの心の糧となり、倫理的バックボーンとなっております。内村鑑三、新渡戸稲造、 三谷隆正など、近代日本の生んだすぐれた知的エリートであり、良心的教育者たちは、 みな、ヒルティを生命への励ましとして生涯読んでいました。思想界が混乱し切っている ようにみえる現在70年代にも、ヒルティはよく読まれているのです。いったい、ヒルティ とは何者であったのか。それは、彼自身の文章を読んでいただくのがいちばんよいと思い ますが、ここで少しご紹介いたしましょう。 スイスの南東、ザンクト・ガレンに近い、ライン川のほとりの静かな村でヒルティは、 お医者の家に生まれ、法律を学び、弁護士からベルン大学教授となって公法・国際法を 講じました。専門的法律関係の著作も多いのですが、わたしたちに興味があるのは、 宗教的・倫理的方面の著作『幸福論』Glueck (全3巻)と、『眠られぬ夜のために』 Fuer schlaflose Naecht I, II (2巻)です。 宗教的と申しました。彼は神学者でも教会の牧師でもありませんで、一介のプロテスタント 信者であったに過ぎず、聖書とりわけ福音書の、単純明快な味読と実践に生きた人です。 聖書のなかの新約聖書を研究する人には、ごく大ざっぱに言ってふたつの潮流・傾向が あります。ひとつは使徒パウロの書いた『ローマ人への手紙』を中心として,罪の問題を 徹底的に考えぬこうとする神学者風の流れであり、もうひとつは、福音書に記されている キリスト教の姿にひたすら近づいて行き、キリストの人格と愛にふれながら自分もそう 生きようとする実践型です。ほんとうはこの両者が統一されなくてはいけないのですけれ ども、どちらかというと、このふたつの流れがわかれていると申せましょう。ヒルティは しいて申せば、後者の福音実践型に入りましょうか。アフリカの聖者といわれたアルベルト・ シュワイツァーも後者でしょう。 また、倫理的著作とさきほど記しました。ヒルティはほんとうに男らしく清潔高貴な倫理 学徒でした。倫理学者だったのではありません。講壇から道徳教育を説くような、日本の 文部省好みのタイプではまったくありません。そうではなくて、実際の生活の中で、愛と 倫理を自分で生きて、その結実を短い文章にしたものを残していったのです。この人の心 の高邁さ、高貴さ、思想と教養の深さ、信仰による断乎たる人生観の強さ―、それらは まことにスイス人らしい、すがすがしいものです。 たとえば『眠られぬ夜のために』をひらいてみましょうか。 《つねに偉大な思想に生き、末梢的なことは軽視するようにつとめよ》。― I, 1月1日 いい言葉ではありませんか。いわゆる人生論ものにつきものの「頑張りズム」的ナルシシズム や、神経衰弱的自虐はぜんぜんないのです。堂々たる人生智です。 《善に対する怠惰は、きわめて大なる欠陥である》。― I, 4月10日 《重荷をよろこんで背おう、これが生の最大の「わざ」であり、このわざをなしうる ひとが、真の「世わたり上手」である》。― II, 2月13日 キリスト教にまったく関係のない人でも、聖書を知らない人でも、ヒルティの文章とともに 聖書にふれると、聖書のことばが生き生きと身近なものとなり、そこにこめられた本質的 思想が力強く、輝やきながらこころの中にわけ入ってくるのを感ずるでしょう。精神か肉体を 病んで眠られぬ夜を過ごすものにとって、この I, II 両部からなる書は、ふしぎな治癒力 にみちたものです。「愛に生きよ」、「愛のたねをまけ」とすすめています。しかし愛の むくいを望んではならない。たねがみどりの芽をふくまでは時を要するだろう。しかも、 あるいは自分の手で実りを収穫することはできないかもしれぬ。しかし、ひとつぶの種子 にすぎなくても、やがていつの日にか多くの実を結ぶことを信じ、望んで、今はただ愛の たねをまけ。ヒルティはそう告げています。わたしは学生時代にこの書を訳し,白水社から 出版しました。今も出ていますが、このような書に若い日にめぐり会い、訳しうる機会をえた ことを、大変幸福だと思っています。 (8月号)