大学のある町 ダルムシュタット

三修社の語学雑誌「基礎ドイツ語」第34巻第5号(1983.9)の依頼原稿です。

                  宮本 裕  ダルムシュタットは,その位置の示すように近代的都市フランクフルトと ロマンの町ハイデルベルクの中間的な印象を受けます。 ダルムシュタットの名が初めて知られたのは11世紀のことで,1479年に ヘツセン州に属することになりました。 町の名の由来は不明のようですが,腸(Darm[ダルム])のような小川が 郊外の大学のそばを流れていて,この川から来ているという説もあります。 森が多く,私も家族とともに静かに散歩を楽しんだものでした。 第2次世界大戦の1944年l2月11日,イギリス空軍の爆撃をうけ 市街の80%が破壊され,戦後復興されましたが,歴史的な市街地は 失われてしまいました。  今日のダルムシュタットの歴史は,ヘッセン州を支配していた フィリップ方伯(Landgraf[ラントグラーフ])が1567年に自分の領地を 子供たちに分け,4男にヘッセンーダルムシュタットを与えた時から 本格的に始まるようです。 その子孫はナポレオンにより位を方伯から大公(Groβherzog[グロースヘルツォ‐ク]) と改めました。それが町の中心の広場ルイーゼンプラッツ(Luisenplatz)に 建てられた長い柱の上から町中を見守っているルーデヴィヒ1世(Ludewig I)です。 ちなみに広場の名前は彼の妻ルイーゼからとったものです。 この一族には,イギリスのヴィクトリア女王の次女も嫁いできています。 またルートヴィヒ4世の娘は,ダルムシュタットからロシアヘ嫁いで ニコライ2世の皇后となりましたが,ロシア革命の時家族は処刑されてしまいました。     母と息子 マティルデンヘーエ(Mathildenhoehe)の丘に”Kuenstlerkolonie [キュンストラーコロニー]“(芸術村)としてこの町の宝というべき貴重な 建物や記念物が作られていますが,その中にロシア正教の教会があります。 これは上記ロシア皇后となった妹アレクサンドラ(Alexandra)の里帰りの時にも, 夫の宗教のロシア正教の礼拝ができるようにと,兄が作ったものです。  大学は二つに分かれていて,町の中心部にある方には学長室のある管理部や 講義室があり,もう一つの郊外の方はその名の通り草原(Licht・wiese[リヒトヴィーゼ]) にキャンパスがひろがり,研究室,実験所が主体となっています。 町の中心部にある城(Schloss[シュロス])も今では大学の図書館や博物館と なっていますが,その城の中にある鐘が時間になると,静かに鳴りわたります。 数十年前この町を訪れた日独医学交流の功績のあった石橋長英博士も, この鐘の音がすばらしいと言ったことを,薬剤師レオポルト・レルヒ氏に聞きました。 二人は長い友だちづきあいをして,毎年相手の国を訪問するのだそうです。

この薬剤師レオポルト・レルヒ氏は1991年1月にダルムシュタットで再会する
ことができましたが、1996年に亡くなりました。
子どもの頃、ウィーンで日本人に親切にされてから、日本びいきになったとのこと。
そういうわけで私も外国人には親切にしたいと思います。

        勉強のために英訳をつくってみました。

    ダルムシュタット大公の家系や英国王家やロシア王朝の家系などの関係メモをつくってみました。

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