ドッペルゲンガー

英語にもなっているドッペルゲンガー(生霊)

私が講演でこの言葉を最初に聞いたのは、
啄木研究家の(元教育学部教授)大沢先生からでした。
啄木は自分の分身つまりドッペルゲンガーの幻想に
とりつかれていたようです。

啄木の自分の分身におびえる話につけて、地元の新聞の記事で
ドッペルゲンガーのことを考えるなら
シャミッソーの「ペーター・シュレミールの不思議な物語」
やアンデルセンの「ドッペルゲンガー」を読むことが薦められていました。

ご存じのように前者は無尽蔵の金貨と交換に悪魔に影を売った主人公の、
焦燥と後悔の物語です。

なおシャミッソーにはフランスとドイツの二重国籍者としての煩悶、
またハイネにもユダヤ系ドイツ人という二重民族者としての苦悶がありました。

シャミッソーは「影をなくした男」を書いたとき、
彼は自分と同じくフランス人の血をうけ、
自分と同じような経歴をもつラフォンテーヌの作品から
たくさん影響を受けたのでしょう。

シャミッソー(1781-1838)はフランスの貴族の生れで、幼ない時に革命の難をのがれて
両親とともに国外退去。1796年からベルリンに住むのです。
ナポレオン戦争がプロイセンに及び、彼は二つの祖国の板挟みとなったのです。

1997年はドイツでハイネの生誕200年祭が行わました。
ハイネの評価はさまざまです。

ハイネ像が分裂しているのは、ハイネ自身の中に分裂があったからと説明される。

ベルリンでハイネは、文学者たちの集まるサロンに出入りするようになりました。
こうしたサロンは多くの場合、裕福なユダヤ人女性たちによって
開かれていた。なかでもラーヘル・ヴァルンハーゲンのサロンにハイネは
必ず姿を見せて、ここでアレキサンダー・フォン・フンボルト、
フリードリヒ・シュライエルマハー、アーダルベルト・フォン・シャミソーや、
メンデルスゾーン家の人々を知ることになる。

ハイネもシャミソーも、二重の存在であった自分たちの身の上を悩みあったのでしょうか。