ドイツのこと、ドイツの思い出、ドイツ文化など
   その4


ドイツに憧れていた私のドイツでの思い出の続きです。

ドイツの市電

ドイツの町で市内電車に乗るには、一般に乗る前に切符を買う。
電車の中で、運転手に言って切符も買えるが、会話しないといけない。
電車はワンマンカー。なのに3両連結の電車が多い。先頭の車に乗っている
運転手が全部の車の乗客の乗降を確認してから発車するのだから
たいしたものだと思ってしまう。

自動販売機で切符を買えば、タイマーが作用して記録される場合もある。
乗務員が切符に鋏を入れないから、乗ったら自分で電車の中のタイマーに
切符を差し込んでがちゃんとさせないといけない。
時間を記録していないと、その切符では不正と見なされこともある。
フライブルクの電車に乗って、いきなり周りのドイツ人から口々に
何か言われて理解できなくて困ったことがある。
そのとき、日本女性が現れて、ドイツの乗車システムを教えてくれた。
フライブルクには音楽学校があって、だから日本人の音楽家がたくさんいた。
それで、若い日本女性から情報を教えてもらえたのはラッキーだった。

無賃乗車は重い罰金が待っている。
ドイツでは各自が紳士的に乗車券や定期券を持っていて、
交通機関を利用する。改札はない。検札もない。
だから、無賃乗車をしようと思えばできる。
しかし、見つかったら重い罰金を払わないといけない。
昔、無賃乗車を発見され、それで留学を中止させられ強制帰国させられた
日本人がいたとおどかされたので、無賃乗車をしたことはない。

あるとき突然、検査員が電車に乗乗り込んでくる。2人組になっていて
すばやく乗客の切符や定期券を調べて回る。
何度かドイツ人が不正乗車をして罰金を払っているのを見たことがある。
たとえば1回150円程度の料金を払えばよいところを、
150円を払わないで無賃乗車して発見されたら、
少なくとも10倍の1500円あるいは3000円くらいの罰金が待っている。
だんだんわかってくると、検査する区間は、特別に駅と駅が長い距離のところ
で検査していることがわかってきた。
そのころは語学研修も終わって、フライブルクを離れるときであった。

フライブルクの市電(ドイツの電車は3両編成)      フライブルク大学のホームページ

ドイツのオペラ劇場でのできごと

フライブルクには音楽学校があるから、大勢の日本人が音楽の勉強に来ていた。
東京芸大や音大の関係者もたくさんいました。
あるとき、日本人の仲間がオペラ歌手として出演するから、応援に
見に行こうということになった。
いつも毎週土曜日になると集まる日本人グループなので、すきやきパーティとか
色々食べさせてもらっていた。私はお金を出すだけで、材料を買いに行って作る人は決まっていた。

さて、町のオペラ劇場には正装でということで、背広ネクタイでやや緊張しながら
行ったものだった。
実は、我々は語学研修中の身分で学生証を持っていた。
学割がきいた。もともとが値段が安い上に学割なので
入場料は日本円で300円くらいだった。
席は奥の天井のところだから、オペラグラスが必要だったが。

だしものはアイーダだった。
我々の仲間の友人は、主役ではないが、重要な脇役の一人として
堂々と歌っていた。

そこまではよかったのだ。
アイーダの話を知っている人には理解できるのだが
舞台はエジプトに侵略されたエチオピアの話なので
外国の軍隊が進駐してきた場面で
舞台は映画画面に変わった。つまりマルチメディアだ。

なんと、スクリーンに写ったのは、ナチスの同盟イタリアのファシスト党
たしかイタリア軍も第二次世界大戦のころ、エチオピア進駐をした。
(世界史年表によると、 1935−36 イタリアのエチオピア侵略)
(1936 ベルリン・ローマ枢軸形成。 1937 日独伊三国防共協定)

さあ、それから会場は騒然となった。
口々に映画をやめろという叫び声が聞こえた。
一瞬、日本のデモ行進の中にいたような錯覚を覚えた。

そして、私の語学研修の同じクラスにいたイタリアの青年たちが
劇場から飛び出して外に出て行ったのを見た。

翌日の新聞にも、このオペラの会場が騒然となっていたことは
出ていたが、語学学校でイタリアの青年と話をしたら
ナチスはごめんだと言っていた。
どうやら、イタリアのほこる音楽家ヴェルディの歌劇を
よりにもよってナチスやムッソリーニとリンクさせたことに憤慨している
ようだった。

演出家の意図がどこにあったのかは知らないが、私は考える。
古代にエジプトに侵略されたエチオピアは、第二次大戦近くにも
イタリアのファシスト党に侵略されたではないか。
ナチス反対、侵略反対。
平和を願うため、われわれは今も立ち上がろう
と演出家は言いたかったのであろうか。

ドイツで中国人の偉大さを考えた

先に書いたが、毎週土曜日になると日本人が集まって
夕食会をした。場所はメンバーが泊まっている大学の寮。
夏休みに学生たちも郷里などに帰ってるから、空いた部屋を
貸し出していたようである。

驚いたことに男女同じ建物に住んでいた。
といっても、男子学生の部屋と女子学生の部屋はそれぞれ
グループで分けられていたが。
そして夫婦ものの部屋もあった。子連れ夫婦学生が大学の食堂で
食事している場面も何度も見た。

我々の食事を作ってくれる人は実は音楽家。それも声楽家であった。
彼は大声で歌うから、普通の家に住んでいると、2階での練習の歌声が
下に響いて、下の部屋の住人から文句が来るという。
ある日本人女性などは大家さんからピアノの練習をしてもよろしいと
契約した上で、しばらくピアノの練習をしていたら、やはり下の部屋の
住人から抗議の申入れがあったそうだ。しかし、女性も強い。
自分は契約している。文句があったら大家に言えと、ドイツ語でまくしたてた
そうだ。

考えてみれば、オペラ歌手はマイクなど使わず、広いオペラ劇場の
すみずみまで届く声で歌うのだから、あの声量はたいしたもの。
したがって、体力をつけなくちゃ、それに精神も満足していなくちゃ
というのが音楽家の彼の哲学。

そのため町中を歩き回って、美味しいものを作るための材料を探してくる。
その意欲はたいしたもの。
私などお金を出すだけで、いつも日本にいるみたいな
料理を食べられて、(こんな楽をして)いいのかなと思ったほどだった。
それで、美味しいおいしいと言って誉めると、やはり料理人も
嬉しくなり、次々と新しい料理に挑戦する。

とうとう、彼らは餃子作りに挑戦した。
中国料理のレストランは世界中にある。ドイツのほとんどの町にもある。
だから、中国料理の材料を売っている店もある。
豆腐とか春雨も売っていた。
そこに行けば餃子の皮も売っていた。

しかし、そのときは品切れであった。
小麦粉はドイツの食料品店にあるから、じゃあ、餃子の皮も手作り
しようかということになった。
ニラも似たものが売っていたし、肉は当然売っている。

しかし、できあがったものは皮が柔らかくて弱くて
形はくずれるし、食べにくかった。
味はまあ美味しかったのだが、餃子の皮が柔らかすぎた。

どうしてだろうか。
やはり、小麦粉が違うのだろうか。
みんなで考えて、どうしても分からず、中国四千年の食文化を
改めて尊敬したものだった。

この餃子の秘密は帰国後も気になってしようがない。
そこで、近くに中国人留学生がいたので、材料費をこちらもちで、彼に
生協店で買ってきてもらった。
そして、彼を先生に家族で餃子を作ってみた。

秘密は、粉をこねてから、1時間近く寝かせておくことだった。
練ってすぐ餃子の皮を作るのではなく、時間をおいてから
皮作りをするわけだ。
中国人留学生は誰でも餃子を上手に作ることができる。