Nachahmung ―― 物真似 ―― ドイツ的精神とわれわれの精神とは、歴史的に言っても構造的 に言っても、全く異質です。その異質だということを腹の底に据 えて、全く別の世界に入っていくんだというふうにお考えになって、 ヨーロッパにお出かけになるのがいいのではないでしょうか。 もちろん、明治時代の人がヨーロッパに出かけた頃と今とでは、 異質の内容がちがいます。ここ百年の間に発達した科学技術は、 ドイツと日本とではほぼ共通で、困ることは何もありますまい。 が、精神に開することでは、やはりまるでちがう、異質な世界です。 でも、あの人たちは偉かったと思うのです、あの明治の先人たちは。 辞書も教科書も何もなしで――法律の連中は,オランダの辞書を 見ながらドイツに行って、わずか一年半ぐらいで、ドイツの憲法全部 持ってきちゃった。 ただ物真似の精神じゃできません。非常に謙虚な魂とあくなき好奇心で、 相手の持っている本質は何だろうかということを一挙に捉えたと 思うのです。それから、鉄道であろうと郵便・軍事・税制のシステム であろうと、本当に短期間に全部学んできているでしょう、明治時代の人は。 しかし今われわれは、こんなに良い教材を与えられ、環境を与えられて いるけれども、明治時代の人と比べて、学び方が非常に弱くなった と思うのです。遊ぶことはうまくなりましたけど、全く異質な相手 の本質を見抜く――精神の目を光らせて学ぶことは、ずいぶん弱くなって しまっています。 己れ自身と日本の文化とのために、自分を築き上げて、しかも 相手の異質な本質を見抜き学ぶ、ということを私たちの世代からは したいと思います。 前項で、日本語がしっかりしてなかったら外国語もできないのだ ということを申しました。おそらく、自分自身を高みに上げて いくという作業を毎日していなかったならば、∃−ロツパに行っても、 結局何も学べないと思います。 それは、学ぶ対象が、音楽や哲学であっても、建築であっでも 何でもいいのですが、それを学びながら、自分を本当に有機的に 形成していくという作業をしなかったならば、一方的に一方通行で 学ぶということだけで終わってしまう。いつまでも一方通行で、 結局物真似に終わるわけです。 本当にものを学ぶというのは、自分もそれと同じ高さまで自己を 高め鍛えていくということでなければ、できないのではない でしようか。 Nachahmung ist der erste Schritt des Lernens. 「模倣(真似)は学習の第一歩です」。 Die Kinder ahmen den Eltern alles nach. 「子どもたちは何でも両親の真似をします」。☆ ☆ ☆
この文章を読むといつも考えてしまいます。