Deutsche Grundlichkeit ―― ドイツ的徹底癖 ―― 夏の暑い日に連絡をうけて、古めかしいRathaus 市庁舎のなかにある Standesamt 戸籍局(係)に出かけました。局長といういかめしい肩書きの、 つまり戸籍係長は中年のがっしりしたからだつきで、白いものが ちらほら見える頭髪をきれいになでつけています。 Blum ブルーム という名の人でした。 ちょうど一週前にそこマールブルク大学付属病院で生まれた下の子の 出生証明書をもらいたかったのです。届けを出せば、すぐ証明書を くれるはずです。 ドイツで生をうけたこの娘に、ドイツの森や原野に今咲いている、 つつましいけれども控え日でありながら美しいエーリカの花の名を、 心こめてつけてやりたいと願いました。大学付属病院の事務局がすでに 一切の届出事務をしてくれましたから、すぐ証明書をもらえるものと 思って出かけました。 さて、ブルーム氏は丁重に椅子をすすめ、掌をくみ合わせて話し 出しました。「お子さんの出生は、たしかに当方としてお受けしましたが、 Heiratsurkunde 結婚証明書をお持ちでしようか。 それがないと、あなたが、このたびお生まれになりErika という名 のついたこのお子さんの父親であると認めるわけにいきません。 いや、たしかにほんとうのお父様でいらっしやるだろうけれども、 証明がいります。それを証明する書類がなくては、父親は小塩節、 と認めるわけにはいかないのです。さ、結婚証明書を!」 机の上に何種類か書式が置いてあります。そのひとつの届出書類は 左肩にunehelich「私生児」と刷りこんであるもので、右肩には 父とおぼしき人物(複数!)の名を書きこむ欄まで用意してある のです。 自称父親 angebliche Vaeter のひとりが、この私ですって? 冗談じゃあない! 私は次のように説明を試みました。 日本では結婚証明書というものは、ドイツのようには発行しない ものです。戸籍謄本なるもので十分なのです。結婚したら戸籍 を設ける本籍地の役所に届けを出す。それが戸籍原簿に記入される。 必要な場合にはそのコピー、つまり謄本を取ればよいので、 よほどのことがない限り、夫婦がいつも結婚証明書を運転免許証 のように自宅に置いておくことはしないものだ、と。 するとブルーム氏は、「いや、それはおかしい。それは単なる 届出であるに過ぎません。 それは、教会的にも国家の側からも、 結婚を証明する書類ではありますまい。文明国日本にないという のは肯んじられません。それに、あなたの言われる届出の済んだ 戸籍簿のコピーでさえ、あなたはお持ちでないのですな」。 コピー、つまり謄本を取り寄せることはできる。東京にいる老母に 電報を打って謄本をとってもらい、独訳し(それを誰に頼むか? ままよ、誰かに頼んで)、さらに在日ドイツ大使館でまちがいなしと beglaubigen lassen 公的認証をしてもらって送ってもらうとする。 それだけで最低10日はかかるだろう。 日本の法律に従えば、 生後2週間以内に届け出ないと日付けが自動的に先へ延ばされてしまう。 この子の6月28日の出生は、午前6時45分というところまでは いらないけど、日付けはそのまま正確に登録したい。きょうは 木曜日だが、来週の金曜日までにはBad Godesbergの在独日本大使館 に届出をし、そこから日本の杉並区役所に至急転籍・移籍をして もらわなくではいけない。 というわけで、戸籍謄本をとり寄せている ヒマはとてもないのだ―−。私は―生けんめいことばをつくして 説明しました。 このあと押し問答が続きます。 「大学の先生でいらっしゃるのですから、たぶんおっしゃる通り なのでしょう。でも当方Standesamtとしては、あなたがこのお子さん の母親と結婚しておられることの証明書がなくては、ご希望の書類 はつくれません。お父さんナシの書類はつくれますがね」と言われます。 困った小塩先生は、先生と奥さんのパスポートを見せます。 でも、ブルーム氏はパスポートを見て、どちらのパスポートにも既婚 の相手の名前が書いていないことを指摘します。しかし、名前と住所 が共通だから夫婦と認めましょうと結局は言ってくれます。 さらに彼は書棚から独訳の日本六法全書を取り出し、婚姻法の全文を読んで どこにも Heiratsurkunde 結婚証明書のことは書いていないことを確認します。 その間に、しきりに電話が鳴っても、部下が用件を取り次ぎに来ても、 「ただいま重要なお客さま!」と怒鳴って受け付けません。 さらに彼は、子どもに両親(父母)の名前をつけないといけないと言います。 小塩先生の奥様の旧姓もつけないといけないというのです。 でまた小塩先生との問答が続きます。小塩先生は日本では夫婦のどちらかの 姓を名乗るが、小塩先生の場合は夫の姓を名乗っているから、子どもの母親の 旧姓は名乗らないのだと言います。 しかし、ドイツ語訳には、父と母の名前をつけると書いてあるから、 スペインのように、父と母の姓をふたつつけるべきであるとブルーム氏は主張する。 小塩先生は日本の六法全書の原文が読みたい、ドイツ語訳は正しいのだろうか と思うのですが、それはかないません。 こうして長い時間のやりとりの後、やっと日本式名前をつけてもらったのでした。 彼は、ごめんなさい、 Entschuldigen Sie, bitte! と言いました。 実は前にギリシアからの Gastarbeiter 外国人労働者にだまされたことがありましてね。 Heiratsurkunde を持ってないんで調べたら、私生児だったんですよ。 そんなことを避けたかったからですと、わびられたそうです。ドイツの役人から ごめんなさいと言われたのは最初の経験だったそうです。 やれやれと安心するよりも、ドイツ人の徹底さにあきれた小塩先生は Deutsche Gruendlichkeit ドイツ野郎の徹底癖 とつぶやいたそうです。 それを聞きとがめられたので、ままよとばかりに大声で Deutsche Gruendlichkeit kommt auch hier zu ihrem Recht. ドイツ的徹底性は、ここにも如実にあらわれた と言ったそうです。これを誉められたと思ったブルーム氏は握手を求めてきて、 ドイツ世界の好きな小塩先生もドイツ人の徹底性には、 やりきれないと思ったのでした。☆ ☆ ☆
まったくドイツ人というものは。
しかし、日本に住む外国人もいろいろな苦労をしているのでしょう。