Kritik ―― 批 判 ―― die Kritik[クリティーク]という名詞があります。動詞は kritisieren [クリティズィーレン]です。語源はギリシァ語で「識別する、区別する」 という意味でした。つまりAとB、もしくは他人と自分のちがい差違を 認め、ちがっている点をはっきり指摘すること、そこから批判が始まります。 異質なものに触れたことのない者は、自分と他者とのちがいを知らず、 従って自己を批判することができない、というのもここからきています。 知日家・親日家のドイツ人による日本人批判は、Warum kritisieren die Japaner nicht? 「なぜ日本人は批判しないのか」。 という声がいちばん多いように思います。 「批判」は、日本では「非難」Vorwurf と同じように受けとられます。目上の人を 批判してはいけない、というぐあいに。 ドイツ人が日本人に求めるのはもっとドイツやヨーロッパに対して、胸を張って 批判をしてほしい。陰にかくれて、日本人だけ集って悪口を言うのでなく、 ドイツ人に面と向かってあらゆる点で批判をしてほしい、ということです。 つまり平ったく言えば、お前さんたちとわれわれとは、ちがう。考え方、生き方、 ありとあらゆる点で異なっている。そういった差違を踏まえて、どしどし思うことを 言ってほしい。それは必ずよい結果を生む。 表向きニコニコして、Ja,ja! ばかり言っていられては心配でならない。 デザインでも盗みにきたんじやないかと勘ぐってしまうのだ、というのです。 いきなり批判しろと言われても、難しいことですね。私たちは日本の精神風土 の中では Kritik を行うようには育てられておりませんから。むしろ、受身の形で 学ぶようにしつけられてきました。二千年来の習性と言えるかもしれません。 In Deutschland werden die Kinder zum selbstaedigen Denken und zur Kritik erzogen. 「ドイツでは,子どもたちは自立してものを考え、批判するように育てられています」。 内村鑑三が申しましたように、日本人にとっては「情」がすべてであって、 「情」が移れば、あとには恨みとしっとだけが残ってしまう。堂々たる、 論理的批判が行われにくく、エモーショナルな感情的やりとりだけが往行するのは、 昔も今も変らぬようです。私たちの世代からは何とかしなくてはいけないと思います。 Man muB kritisieren koennen. 「批判することができなくてはいけない」。 In Japan wird Kritik oft als Vorwurf verstanden. 「日本では批判が非難だと受けとられることが多い」。 Kritik ist kein Vorwurf. 「批判は、非難ではありません」。 ☆ ☆ ☆ 批判は、非難でははないというが。