Das Ewig-Weibliche ―― 永遠に女性的なるもの ―― 「恋とは美しきこと言いて、みにくきわざをなすものぞ」という ことばがあります。神さまが人間にくださった美しい「恋」も、 男性は、動物よりもっと動物的な行為によって破壊してしまうも のではないかと思われます。 平和のためと称して戦争を起こす。進歩と建設をおおげさに呼号 しながら、実は破壊の道を進み、自由のためと言って人の生命 を奪う。男のすることなすこと、ことごとく破壊である。男は破壊 によってしか歴史を進められない。建設をするといっても、破壊を 通してしかできない。男性である私が言うのですから、まちがい ありません。 女性は生命をさずかり、生命を与え、育て、守り、文化を保つ。 愛は女性からくる。女性は愛を生み、守り、貢く。愛は女性 なるものの本質である。そう思います。少しほめ過ぎかな。 ドイツの詩人ゲーテの作品に、『ファウスト』というドラマが あります。近代のあけぼのがあけそめるころに実在した人文主義者 のファウスト博士。この人物を主人公にしてゲーテは一生をかたむけて 近代ヨーロッパの、自我・自己の意志を極限まで拡大しながら、 学問と行動に生きるヨーロッパ的人間の原型もしくは典型を 刻み上げようとしました。いかにも男らしい男、停滞を憎み、 悪魔をも恐れぬ男です。 ところがこの男が一生をかけてやりあげた仕事は、政治、経済、 学問すべてにわたって神の日から見れば何でもない。いやむしろ 破壊でしかなかった。 それにひきかえ、何げない町娘のグレートヒェン という少女は、この巨大な作品のはじめから終わりまで ほんのつつましい姿であるのに、愛によってファウストを導き、 「とりなし」の祈りによって彼の魂を救います。 彼女は短い生涯にいくつものあやまちをおかします。彼女は自分の うちにある暗い炎を知り、過誤と罪とをはっきり見ぬきます。 肉にともなう人間性の暗さを離れ、それと無関係に、単純な 明るさや清純というものはないのであって、人間の美しさとは、 罪にまみれた死のかげの谷を歩いても、より高いものへの恐れと、 愛に生き愛に死ぬ心を失わぬものの内面から生まれます。 それは、たったひとりで神さまの前に立って、自分の罪をすなおに 申しあげることのできる魂であり、人間の真の強さとは、ひとりで 神の前に立てるかどうかにある。これこそヨーロッパ的人間の ほんとうの原型である、とゲーテは作品を通じて語っています。 ただ「女」であることは容易です。母であり妻である、ということも。 でもゲーテはもっと深いところを見ていました。『ファウスト』巻末で 「永遠に女性なるもの」と彼が歌ったのは、古きもの新しいものを貫いて、 真の愛に生き、愛ゆえにひとりで神さまの前に立てる女性への永遠の讃歌 でありました。そのような砕かれた悔いし魂は、愛するものをついには、 ともに神の前に、あるいは真理の前にともなっていくでしょう。 ☆ ☆ ☆ この文章を今読み返しています。 昨年(1998)は教育テレビで人間大学に、小塩先生がゲーテの講義をされました。 この文章との関連で思い出しているのですが、 ゲーテのたどった場所を紹介しながら、当時のエピソードを話され、 ゲーテが女性により、最後まで人間らしく生きることができたことを説明していました。 小塩先生によれば、真のヨーロッパ人は一人で神の前に立ち自分の罪を認める ことのできる人間であるのです。