ベルリン封鎖は冷戦の事実上の宣戦布告だった。
飢えによって自由を奪おうとする非常な行為に対し、米国をはじめ西側はどうしたら
応戦できるのか。地上軍で圧倒するソ連の前に、核攻撃の選択の余地もあり得るのか。
その答えは米駐留軍司令官ルシアス・クレイとベルリン市民が直ちに解いてみせた。
西ベルリン市長のエルンスト・ロイターを父にもつダイムラー・ベンツ社の前会長
エッツァルト・ロイターは当時を振り返って、こう分析している。
「ベルリン空輸作戦はワシントンの苦渋の選択だったと思う。それは西側連合国と
ロシアとのもう一つの世界戦争を導きかねなかったからだ。トルーマン大統領は
輸送機が撃墜される懸念があるにもかかわらず、クレイ将軍の提言を受けて空輸を
決断した。ベルリンをロシアに差し出すことは西欧を失うことにつながると考えた
からだ」
ルシアス・クレイはこれまでに、冷戦に突入することには最も抵抗を示してきた
将軍だった。だか、ベルリン市民に飢えを強いる行為に態度を一変させた。
当初、クレイは列車に護衛の小銃隊を増強して限定的な軍事力行使も辞さない覚悟を
表明していた。しかし、新国防長官フォレスタルは「大規模な衝突に対する十分な
準備態勢がない」との理由で却下した。
1940年代末期に「鉄のカーテン」をはさんで対峙(たいじ)する地上兵力は、
125対14の比率でソ連軍が圧倒していたからだ。戦闘が拡大した場合、
米軍には約300万のソ連軍に対抗できる兵力の展開がなかった。そこでクレイは
ドイツの3つの占領地から輸送機を動員し、設備の貧弱なベルリンの2つの空港でも
積み荷を十分に受け入れられることを確認した。そして、この結果をもってワシントン
に飛んだ。
トルーマンの回顧録「決定の日々」によると、クレイは西ベルリンを放棄する
ことがどれほど悪影響を及ぼすかをホワイトハウスで訴え、西ベルリン市民の
覚悟を伝えた。さらに十分な量の食料、石炭を供給するために75機の輸送機C−47
の追加を求めた。トルーマンは閣僚や軍事顧問に意見を求めた。軍事参謀総長
ホイット・バンデンバーグはじめ多くが「戦闘が発生した場合に大半が破壊される
恐れがあり、戦略上の態度を著しく低下させる」と反対した。
すっかり落胆したクレイは会議後、大統領に挨拶してホワイトハウスを後に
しようとした。その際、トルーマンは「空輸は確かにうまくやれるのかね」と
尋ねた。クレイが陸上輸送より戦争の危険が少ないと指摘すると、トルーマンは
「では、飛行機を提供しよう」と応じた。
空輸大作戦のシステムができあがった。ピーク時には、24時間になんと
1398機が61.8秒ごとに発着し、12940.9トンの貨物を運んだ。
米軍だけでなく英国、フランスの軍も航空機を用立て食料、医薬品、暖房用の石炭
など生活にかかわるすべてが空輸された。昼夜の別なく飛来する飛行機の騒音が、
「西ベルリン市民にとっては、心理的な支えになった」とエッツァルトはいう。
東西分裂を受けて西ベルリン市長に就任していた父エルンスト・ロイターは、
東側の体制の邪悪さを確信していた。彼のラジオから流れる演説は、ベルリン市民
の痛切な思いを世界に訴え、市民を鼓舞した。
「世界の人々よ、この街を見てほしい。この街と国民を決して見捨ててはならない。
この戦いに勝ち抜くまで、敵に勝利し、暗黒の力に勝利する日まで、力を合わせて
頑張りぬくしかないのだ」
この叫びによって、ベルリンは自由を求めるドイツ市民を象徴する街となり、
エルンストは西側から尊敬と信頼を勝ち得た政治家の一人となった。ソ連側が
西の市民を絶望のふちに追い込み、東側に誘う込もうとする狙いを打ち砕いた
のである。
ワルシャワ、プラハ、ブダペストにも自由に立ち上がった人々がいたが、
西側は支援にまでは踏み切れなかった。国務省スタッフだったルイス・ハレーは
「もしソ連の挑発から戦争になることを恐れてベルリン市民を赤軍に渡して
しまえば、西側が防衛を約束した他のすべての国民は、その約束がどれほど
あてにならないかを疑ったに違いない」と述べ、ギリギリの選択であったことを
強調した。
戦後、欧州で核兵器の使用が米軍のオプションの1つになり得る事態は、
このベルリン封鎖だった。しかし、クレイの決断とベルリン市民の戦いは、
核攻撃オプションが不用なことを証明したのではないか。
それにしても、なぜ、ソ連は封鎖という危険を冒すことができたのか。
この疑問に対する1つの答えを、元国務長官キッシンジャーは著書「外交」で、
外相を辞任したばかりのアンドレイ・グロムイコから直接聞き出したと書いている。
グロムイコによると、当時、何人かの外交・軍事顧問がスターリンに憂慮を
表明したが、スターリンはこれを無視する理由を3つ挙げたという。まず米国は
ベルリンに核兵器を使用しない。仮に米国が物資の護送隊を通過させれば赤軍が
阻止に動く。そして米国が全戦線で攻撃をしかけそうな場合は、スターリンが
自ら最終的な決断をするという判断であった。キッシンジャーは、武力で反撃の
可能性があるときにのみ強硬策を撤回するスターリンの行動様式を指摘している。
だが、スターリンには大きな誤算があった。封鎖によって比較的容易に目的を
達成できると考え、西側の空輸能力と、それ以上に西ベルリン市民の意志の強さを
過小評価していたのだ。スターリンの狙いははずれ、かえって米国の威信を高め
西側陣営を結束させてしまった。49年4月に北大西洋条約が調印され、西側の
軍事同盟である北大西洋条約機構(NATO)ができると、翌5月にソ連は封鎖を
解かざるを得なくなったのである。
(産経新聞 1998年3月5日)