ベルリン空輸から50年

旧ソ連と米英仏がそれぞれ占領した旧東西ドイツにおいて、同じ時期に実施した
通貨改革がきっかけとなって、ベルリン封鎖が強行されたのだった。

他の地区は旧ソ連か米英仏のどちらかが管理したが、ベルリンだけは
両方の新マルクが流通することになったのである。そのベルリンにおいて
西の通貨が実質優勢となったことに対し、不安をいだいた旧ソ連軍当局が
48年6月末、西ベルリンへ旧西独から通じる交通機関を全面的に
止めた。

そこで、米英仏はソ連が譲歩して封鎖を解除するまでの1年3カ月以上
にわたり、西ベルリン市民の生活物資を空輸したのであった。

ベルリンでは、1月から米英仏への感謝を込めた展示会や討論会、音楽会
などが始まり、来月5月まで70以上の行事が予定されている。クリントン
大統領の訪問は、一連の行事のハイライトとなり、ベルリン市内の劇場
での記念講演、「ポツダム宣言」で知られるポツダム市でのコール独首相
との会談にのぞむ。

大統領を迎えての行事には、空輸作戦にかかわった人も招かれる。当時
パンアメリカン航空の機長として約千回の飛行をし、今もベルリンに住む
米国人ジャック・ベネットさん(74)は「深夜も飛び、事故寸前の
危険にも遭遇した。市民の命を救うのだという使命感で続いた空輸だ。
参加したことに誇りを感じる」という。
(朝日新聞 1998年5月13日)