ピサロ 1475-1541

スペイン人 黄金を求めてベルーのインカ帝国征服をたくらみ 司祭アルマグロと組んで計画を立て、2度の予備調査を行う。 1529年7月、トレドにおいてスペイン国王と協定を結び、ペルーの総督に任命される。 180余名の部下を率いてペルーに向かう。 インカ帝国が皇帝位をめぐる嫡子ワスカルと庶子アタワルパの争いで二分されている 状況を利用しながら進軍し、1532年11月カハマルカに到着。 その地で会見に来たアタワルパを捕らえ、1万人以上ものインディオを殺害。 大量の金銀財宝を釈放の身代金として手に入れたのち、 1533年8月にアタワルパをワスカル殺害、偶像崇拝などの理由で処刑した。 インカ帝国を滅ぼし首都クスコを掌握したが、敵対するインディオの大軍に囲まれていた ため、スペイン人居留地との接触がとりやすい海岸地方にリマを建設した。 その後、アルマグロがクスコの領有権などをめぐってピサロと公然と対立するようになり、 1538年ピサロは戦の末に彼を処刑。これを契機にスペイン人どうしの内乱が始まった。 1541年6月、ピサロはアルマグロの遺子に暗殺され、インディオも反乱を起こし、 しばらく、ペルーは政治的に落ち着かなかった。

 

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