1848年革命、ドイツの三色国旗、1989年デモ

1848年革命の跡をたどって    ヴァルトブルクの祭典からパウロ教会へ  一瞬、歴史は繰り返される、という思いを抱かされるかも知れない。 1998年5月18日午後4時ごろ、150年前と同様にドイツ各州から選出された 国民の代表が、フランクフルトのバウロ教会へ向かって歩んでいく…… あの時と同じ厳かな雰囲気に包まれて。しかし今度は、市の砲兵隊が礼砲を発射 することもないし、その数週間に国内に動乱が勃発し、バリケードを築いて 戦うということもないだろう。今年5月には、招待客たちが、ローマン・ ヘルツォーク大統領に先導されて、1848年の自由選挙による初のドイツ国民議会 を記念する祝典に参集することになっているのである。  多数の小邦に分裂していたドイツを統一的な国民国家に統合し、自由主義的な 民主憲法を制定すること、これがl848年に585名の議員が掲げた目標であった。 彼らは、フランクフルトのバウロ教会をその議場に決めた。祭壇は緞帳で隠され、 オルガンは前面にゲルマニアの絵を掛けて隠されていた。牧師が祝福を与える壇には、 議長の椅子が置かれた。当時の記録によると、教会の堂守りのマイヤーは髭を 長く伸ばしていたという。それが革命家のシンボルだったのだ。 ドイツの歴史に革命は多くはない。そのなかで1848年のそれは、自由への幕開け を画したものであり、ドイツの民主主義と統一国家への口火となった革命であった。  自由の幕開け ― 1848年の国民議会  ドイツの国民運動を覚醒させたのはナポレオンだった。ナポレオンに対する ドイツの解放戦争(l813〜1815)は、民族統一の願いや封建的支配からの市民の 自己解放の期待とも結びついていた。フランス革命は、それが実現可能なことを示した。 フランスは、∃−ロッパに近代国民国家のモデルを突きつけ、ドイツにも自由と 自決への憧れを目覚めさせたのである。だが1815年には、どうしたらこの目標に 到達できるかを知る者は、ドイツにはひとりもいなかった。解放運動により 民族意識を高めた知識層、つまり詩人、教師、大学教授、牧師、学生といった 狭い層によって支えられていたからである。学生たちのなかには、志願兵として 対ナポレオン戦争で戦った者が多数含まれていた。戦場から帰還した学生たちは、 ドイツの再編に積極的に参加しようとする。こうして、イェナのリュツォウ義勇軍に 所属した学生たちを母体として、黒・赤・金をシンボルカラーとする 「全ドイツ学生組合(ブルシェンシャフト)」が誕生した。以後、ドイツ民主主義 の象徴となるこの黒・赤・金の三色は、リュツォウ義勇軍が平時に着用した制服に 使われた色である。上着は黒で赤いビロードの折り返しがあり、ボタンが金色だったのだ。  1817年l0月18日、多数の大学のプロテスタントの学生たちがヴァルトブルクの 祭典を開催したが、この祭典で初めて黒・赤・金の三色旗がひるがえった。 集いの趣旨は宗教改革300年と、ライプチヒ近郊でのナポレオンに対する 「諸国民の戦い」戦勝3周年を、併せて祝うことにあった。だが、祝典はそれだけに とどまらなかった。小邦分立と絶対主義に対するプロテストの色彩を強く帯び、 社会的緊張の高まりを内にはらんでいた。そうでなければ、たった350名の学生の 集いがあれほどの大きな反響を呼んだことが理解できない。もちろんこの集会でも、 国民的なプロテストという目的は漠然としたものだった。政治的目標はロマン的、 夢想的であって現実的とはいえず、自由の理念と同じぐらいにビールに陶酔し、 政治的意志の表明方法に至ってはぎごちないものであった。演説は熱気にあふれ、 真理と正義の精神を喚起し、祖国への愛と自由を呼びかけるものだった。  しかし、具体的にどのような行動をとったらよいかを知る者はいない。復古主義の 文筆家の書物を何冊か焼き捨てるという非民主的行為が、唯一の“政治的”な 行動だったのである。  このようにヴァルトブルクの祭典は根本的には他愛のないものだったが、 その影響は重大だった。支配権力側が、この祭典を侮辱と受け取ったからだ。 学生組合は禁止され、大学は監視下におかれ、厳しい検閲が行われ、密偵が 跳梁するようになった。知識人は、ある者は投獄され、ある者は他国へ逃亡し、 以後は亡命者が次々と生まれていく。反動勢力の勝利だった。その後の何年聞か、 ドイツは政治的には平穏のうちに過ぎた。市民は個人生活に引きこもり、 のんびりと安楽なビーダマイヤー文化にのめり込んでいった。        ドイツ大学生の光と陰  I830年7月、思いもかけずパリに革命が勃発。ドイツの知識人も、新たな政治行動 を起こす使命感に駆り立てられることになる。同じころ、ポーランドではロシアの 支配に対し、イタリアではオーストリアの支配に対して反乱が勃発する。1年前には、 ギリシャがトルコからの独立を闘い取っていた。∃−ロツパのあちこちで、同時的に 革命が勃発したことは、封建的な旧体制に対する闘いが、すでにヨーロッパの趨勢 となっていたことを示している。  フランスの7月革命の影響は、ドイツでは弱いように見えた。しかし、見えない 部分で意識の激変が起きていた。特に南ドイツの若い世代の知識人たちが、政治的 興奮にとらわれた。この興奮が最も顕著になったのが、1832年5月2フ日の 「ハンバハの祭典」である。ブファルツ地方にあるハンバハの古城跡に集うよう、 大量のビラが撒かれたのだった。この集会でも、関心の中心はもはやドイツ一国 には限られず、「∃−ロッパの秩序」「フランス、ドイツ、ポーランド各国民の 誠実な同盟を中心とする∃−ロッパ国家共同体」を準備することに集まっていた。 ハンバハの祭典には2万を超す国民が集まった。ここでも参加者の頭上には、 黒・赤・金の旗がひるがえっていた。集会の主催者はこの祭典を「ドイツ国民の祭典」 と呼び、演説の最後は「統一ドイツ万歳」「ヨーロッパ共和国連合万歳」の叫びで 締めくくられた。祖国、国民主権、諸国民の連合、これこそが大目標だったのである。 旧体制に対する闘い ―― 全欧的な事件  こうした目標を見れは、「ドイツ・ナショナリズム」の運動が古典的・理想主義的 な自由主義を離れて、新たな方向へ向かいつつあったことは明らかである。すでに 若い世代が台頭していた。彼らにとって文学面の旗手はハインリヒ・ハイネとゲオルク・ ビューヒナーであった。だが、ハンバハの祭典直後に始まった弾圧のため、この 「若きドイツ派」は開花することなく終わる。その痕跡は、やがて完全に消えてしまった。 ビューヒナーが起草した『ヘッセンの急使』は、ハンバハの祭典後に結成された 政治サークルが後世に残した扇動パンフレットの中で、最も感動的なものである。  l814年l0月18日の祭典を皮切りに、公の祭典は解放運動のお定まりの表現形式 となった。詩人・歴史家のエルンスト・モーリツ・アルントの呼びかけに応じて、 多くの地域で年若い国民が野外へ出て火を燃やし、「諸国民の戦い」の記念の日を 追想した。1817年のヴァルトブルクの祭典、1828年の二ュルンベルクでのデューラー祭、 そして1832年のハンバハの祭典がこれに続いた。l837年以降は、文化史的な記念日 であるような一連の祭典が加わるようになる。この種の行事は本来、政治的性格を 持たないため妨害されずに開催できたからだ。そうした祭典を通じて、国民国家の 形成が国民の共通の体験となってゆく。この、いわゆる「3月前」と呼ばれる 1848年3月革命直前の時期には、民族意識と民主主義思想を抱くすべての階層の 人々の間に一種の集合運動ともいえるものが成立していた。国民の祭典が国民の革命 として燃え上がるには、わずかな火種さえあれば足りるという状況が生まれていた のである。  その火花は、またもフランスから発せられた。 1848年のパリ2月革命である。 革命の火はライン河を渡り、マンハイムとマインツに飛び火し、3月初旬には瞬く間に ドイツの多数の小邦に拡がった。国民集会が開かれ、街頭デモが組織され、領主に 請願書が突きつけられた。出版・集会の自由、陪審裁判所の設置、選挙権などを 要求したのである。領主たちはそれを受け入れる。だが、「3月革命の成果は、 支配者側が一時的に虚脱状態に陥っていたためにもたらされたものであり、 支配者たちが完全に敗北したものではなかった。そればかりか、勝者自身が そのような勝利を望んでいなかった。つまり、フランス革命と同じ意味での 革命を望んではいなかった」(ゴーロ・マン)のである。  革命家たちの共通の大目標は、国民国家の建設であった。その第一歩が、 フランクフルトのパウロ教会での「準備議会」設立だった。この福音派の教会は、 たちまちのうちに全ドイツの解放運動の本拠となった。そして、ついに 1848年5月18日、ドイツ国民の代表585名がパウロ教会に参集する。 ドイツ人が ――男性にしか選挙権が与えられていなかったにせよ――とにもかくにも史上初めて、 自由選挙で選出した共通の代表たちだった。彼らに託された最大の課題は、 国民国家建設の礎となる自由主義的な憲法を策定することだった。しかし 国民議会の成員からして、この目標の達成には適していなかった。「教授議会」 と呼ばれたのもあながち不当ではないほど、議員は知識階級の出身者に片寄っていた。 当時は政党が存在しなかったので、選出されたのは各地の名望家たちだった。 そのため精神的水準は高くても、実際の政治活動では必ずしも有能とは いえなかったのである。 重要な権力問題を素通りした「教授議会」  国民議会の討議は数カ月にわたった。ドイツの国家形態をどうすべきか、 共和制か立憲君主制か、各邦の境界をどこに定めるべきか。これらの問題をめぐって、 議員は急進左派、保守的な右派、はらばらの中間派に分裂した。 こうした不均質の議会は、不均質の国民の意識の反映だった。フランスの歴史家 ジョセフ・ロヴァンは、こうした状況を次のように要約している。「1848年の ドイツ革命は、.........市民革命だったが、市民のうち若干の者はすでに冒険的な 資本主義の企業活動に走る一方、他の者はまだ、さまざまな安全措置を備えた 不活発なツンフト制度に頼っていた。活動的な市民がすでに20世紀への道を 歩み始めていた―方で、適応性に欠ける市民は依然として中世的なものの見方に 捕らわれていた」。  パウロ教会の議員たちは、国民と国家の主権を確立することができなかった。 妥協的な憲法が議決されはしたが、施行されなかった。「革命の場合、権力問題を 自分にとって有利に解決した者が勝利をおさめるものだが、フランクフルト議会は まったく権力を掌握できなかった」(ハーゲン・シュルツェ)。権力問題を真剣に 討議することを怠り、新旧を宥和させようとしたのである。これに対し君主の側は、 依然として武力に裏付けられた権力を掌握し続けることで、その地位を主張できた。 1849年5月30日、バウロ教会の国民議会は解散する。ドイツは、民主主義革命の 好機を逸してしまった。  とはいえ、1848/49年は、成果なしに終わったわけではない。「現状維持派と 改革派」(シュルツェ)の対立は、ともかくも妥協で解決した。その結果ドイツの 到る所で、支配者は成文憲法に縛られ、立法権を議会と分けあわねばならないこと になった。そして、その後の数年間に旧世界を根底から覆したのは政治的な革命 ではなく、経済と労働関係の革命、すなわち工業化の進展にほかならなかった。  ドイツは、1848年には統一国家にならなかった。だが、ドイツ人は国民としての アイデンティティを獲得し、統一の意識を植え付けられた。こうした国民としての アイデンティティの基礎があってはじめて、1866年から1871年の統一国家建設が、 「上からの統一」ではあったが可能となったのである。そしてパウロ教会の精神、 つまり自由の精神は今日まで生き続け、消えることのない政治的アクチュアリティを 保持し続けている。それを大きく支えているのが、ヨーロッバ諸国民は共同で新時代 の幕開けに向かっている、という感情なのである。  ドイツはl871年の国家統一のチャンスを、もう一度棒に振ってしまう。そして、 改めて民主主義革命が必要となる。自らの過ちによるドイツの分断―― つまり第二次世界大戦の帰結――を再び解消するための、東独の人々による 「平和的な革命」だ。 1989年にライプチヒで行われた月曜日のデモにも、 1848年の精神、すなわち自由と統一の若々しい精神は生きていたといっても 過言ではないだろう。ライプチビの二コライ教会とフランクフルトのパウロ教会は、 自由な発言の場、批判的な演説の場として肩を並べる。 l848年同様、1989年の 革命でも知識階層内部の民主化要求運動に端を発し、福音派教会が中心的役割を 演じていたのだ。  いうまでもないことだが、1990年のドイツ再統一によって国民の統一までも 完了したわけではない。しかし、もはやこうしたドイツの内面的統一は、将来 実現されるべき∃−ロッパ統合の一局面でしかない。ヨーロッパの統合に際しては、 参加の権利を新たに定義し、ヨーロッパ「市民」としての国民の役割を改めて 考えなければならないだろう。ほかでもない、そのふたつが1989年と1848年の 革命の中心的テーマなのである。

ドイツの歴史を知らないと、かなり難解な文章だろう。
神聖ローマ帝国という名前の、実質は各地の領主に治められた、ドイツ語を話す
民族の地域が、フランスのように統一国家の形態をとるには
苦しくて長い歴史があったのだ。

ナポレオンはヨーロッパを支配して、ついに1806年にはライン同盟により、
南ドイツを実質的に支配した。そして、神聖ローマ帝国はここに消滅した。
しかし、しばらく続いたナポレオンの支配も1812年のモスクワ遠征から
風向きは変わり、1813年にライプツィヒの戦でナポレオンは敗北する。
エルバ島に流されたナポレオンは島を脱出するが、1815年に
ワーテルローの戦で英・プロイセン軍に破れナポレオン時代は終わる。

1848年3月のいわゆる3月革命で、フランクフルトに集まってきた代議員
たちによるドイツ国民会議は、オーストリアを除いてドイツを統一するという
いわゆる小ドイツ主義をとり、プロイセン王をドイツの皇帝とすることを
決めた。
しかし、1849年にプロイセン王は革命のおかげで皇帝になることを拒否した。
自分の力で皇帝になった方が、ドイツ国民会議に気にしなくていいから。
(フランスとの間の戦争に勝った1871年に、プロイセン王はヴェルサイユ宮殿で
ドイツ皇帝の即位式を行った)