ドイツの大学生の光と陰
潮木守一:ドイツ大学への旅(リクルート)
ナポレオンを倒した戦争をドイツは解放戦争と呼ぶ。
解放戦争を戦ったのは青年たちであった。祖国に戻った青年
のなかには大学に戻ったものもいた。
そして勢いのついた彼らの中には
暴飲暴食乱暴狼ぜきをはたらくものもいた。
中世からの大学には伝統的に裁判権があった。
もともと権威に逆らい、反抗したり、騒動を起こしたり、
悪ふざけなどやってみたい年頃である。
こうした若者が酒を飲んで喧嘩をしたり決闘をして、
もめごとが起きたとき、大学内部で裁判を行い処分をすることが
行われていた。
イギリスの場合、やはり学生と市民との間の暴力事件が問題となって
大学は全寮制度となったが、ドイツの場合は依然として
大学は市民の中にあってイギリスのように隔離されなかった。
著者は、イギリスの大学は学生の行動を100%統制下におくことの
できる制度だから、イギリスの大学生は「フルタイムの学生」だったの
に対して、ドイツ大学は学生たちの生活のごく一部しか統制することの
できなかったから、ドイツの学生は「パートタイム学生」だと呼んでいる。
イエナ大学のようなドイツの古くからある大学では
学生は出身地ごとに編成された学生国民団に所属するのが習慣と
なっていた。そこでは上級性が下級性をいじめる伝統が続き
バンカラという言葉でいいあらわされた。
このような封建的な学生国民団に対抗してブルシェンシャフトがうまれた。
この運動は、こうした無秩序、野蛮の支配する学生生活を向上するため
学生自身の内部の声から生まれたものである。学生による自己変革運動
といえるものである。
この運動は単なる学生生活の改善運動にとどまらなかった。
それはもうひとつ、ドイツのナショナリズムという民族意識を高める運動
の側面をもっていた。小国家に分裂したドイツを、一つの言葉、一つの民族
としてまとまり一つの国家を作ることを唱え始めた。
その新しい集まりはドイツの祖国統一をめざした。
もはや、出身地ごとに編成された学生国民団で内部支配にあけくれる
封建多岐な学生の集まりでは時代遅れなのである。
こうしてブルシェンシャフトは心ある学生をひきつけ、イエナでは
結成翌年には全学の65%の学生が加入するようになった。
解放戦争後にイエナ大学で発足したブルシェンシャフト運動は、またたくまに
ドイツ各地の大学へ広まった。
1817.10.18 ワルトブルク集会 当時の旧体制のシンボルであった弁髪、胴着
指揮棒は火にくべられた。
ブルシェンシャフト運動は政治運動に発展していったから、当局からの
弾圧を受け、大学と政治支配者との対決の構図はドイツでずっと続くことになる。
>1817年l0月18日、多数の大学のプロテスタントの学生たちがヴァルトブルクの
>祭典を開催したが、この祭典で初めて黒・赤・金の三色旗がひるがえった。
>集いの趣旨は宗教改革300年と、ライプチヒ近郊でのナポレオンに対する
>「諸国民の戦い」戦勝3周年を、併せて祝うことにあった。だが、祝典はそれだけに
>とどまらなかった。小邦分立と絶対主義に対するプロテストの色彩を強く帯び、
>社会的緊張の高まりを内にはらんでいた。
時代を先取りした大学生たちや大学は
時の政府と時には対立し、時には共通目標ですすむ。
ドイツは昔からこうして世界史に貢献したのかもしれない。
(政府が行うのではなく)大学が行う、教授資格試験に合格すれば、
誰でも講義ができた。こうして私講師になっても、有名な教授たちと
競いあいながら、どちらが学生をたくさん集めるか日々の講義に
心身をすりへらすのであった。
ショーペンハウアーは教授資格試験に意地悪い質問をしたヘーゲルを
許さなかった。若い私講師となってショーペンハウアーはヘーゲルと
同じ時間に講義をぶつけしかし無惨な敗北をきした。
晩年のショーペンハウアーはヘーゲル哲学を偽学問ときめつけ
徹底的な批判を行った。晩年になって学会から賞賛を得て
ベルリンアカデミーの会員にという誘いを受けたが
彼から断ったという。
教授や助教授のホストは限られていて誰かが辞めない限り
資格をもった私講師はそのポストに就けなかった。
1843 ベルリン大学の教授たちは文部大臣の教授増員政策に
こぞって反対した。これ以上教授が増えたら、聴講料が
減って教師はともだおれになってしまうから。
ベルリン大学での紛争のリーダーとされた助教授グナイストは
大変人気のある講義をしていたのにもかかわらず教授になかなかなれず
文部大臣に昇進の請願書を送ったところ、文部大臣は規則通り
教授会に回し、教授会は彼の論文は少ないとして給料を200ターラー
上げただけだった。彼は紛争後10年にして42歳の時教授になれた。
わが日本の伊藤博文がグイストのもとに訪れたときは、彼は70歳に近い
老師となっていた。彼は伊藤に「日本は英国の真似をしても、国会に
予算を全権するのではなく、帝室と政府がその権利をもつこと」
と言ったという。
他の国の大学との比較を述べているという
同著者のキャンパスの生態誌(中公新書)も読むべきであろう。