31回目から36回目まで
コペンハーゲン、北欧のこと、パリ、パリの橋
(ここは 文章だけではわかりにくいと思います)
(画像データを載せるようにしてみたいのですが)
(橋やパリ風景に興味のない方は読み飛ばしてください)
船に乗るとき配られた日本語のパンフレットを参考にし
さらにパリの解説書を見ながらメモします。
(街物語パリ、JTB出版事業局)
アルマ橋とアンヴァリッド橋の間の
バトー・ムーシュ発着所から乗船。
ここからまず上流に向かって、シテ島やサンルイ島を回って、
折り返し下ってくる。そしてバトー・ムーシュ発着所まで戻り、
エッフェル塔を見て、自由の女神小像のあるグルネル橋で
折り返し、もとの乗船場に帰ってくる。
【アンヴァリッド橋】
アンヴァリッド
ルイ14世は傷痍軍人、退役軍人のために廃兵院(アンヴァリッド)を建てた。
さらにドーム教会も加わった。前庭が広い。
【アレクサンドル3世橋】
ブルボン宮殿
【コンコルド橋】
コンコルド広場 テュイルリー庭園 オルセー美術館
【Passerelle Solferino橋】
【ロワイヤル橋】
サン・ジェルマン地区
【カルーゼル橋】
ルーヴル美術館 フランス学士院
【デザール橋】 = 【ポン・デザール】=芸術橋
造幣局
【ヌフ橋】 = 【ポン・ヌフ】
裁判所 ラ・サントシャペル カルチェ・ラタン
【サン・ミッシェル橋】
警視庁
【プチ橋】
【ドウブル橋】
ノートルダム寺院 パンテオン(霊廟)
【アルジェヴェルジェ橋】【サン・ルイ橋】
サンルイ島
【トゥーネル橋】
【シュリー橋】
アラブ世界文化センター
ここから川を戻る。
【マリー橋】
【ルイ・フィリップ橋】
市庁舎
【アルコール橋】
市立病院 救済院
【ノートルダム橋】
【シャンジュ橋】
ラ・コンシェルジュリ(牢獄)
最初は国王の居城として使われた。コンシェルジュリとは
当時の王宮の高官(コンシェルジュ)の管轄下にある場所という意味。
14世紀中に監獄として使われるようになり、フランス革命後には、
マリー・アントワネット、ダントン、ロベスピエールらが、ここから
断頭台に送られていった。
【ヌフ橋】
【デザール橋】 = 【ポン・デザール】=芸術橋
ルーヴル宮殿 ルーヴル美術館
【カルーゼル橋】
【ロワイヤル橋】
コンコルド広場 ルクソーのオベリスク
【コンコルド橋】
アンヴァリッド広場
【アレクサンドル3世橋】
【アンヴァリッド橋】
バトー・ムーシュ発着所
【アルマ橋】
アルマ橋の旧アルジェリア歩兵立像
パリ市近代美術館
【ドゥビリー橋】
【イエナ橋】
シャイヨ宮 シャイヨ劇場
1937年の万国博覧会のために現在のシャイヨ宮が建設された。
エッフェル塔の正面でエッフェル塔がよく見える。
エッフェル塔
【ビル・アケム橋】
白鳥の散歩道
【グルネル橋】
ニューヨークの自由の女神像コピー ミラボー橋
【ビル・アケム橋】
ビル・アケム橋(フリー・フレンチの戦い)
【イエナ橋】
【ドゥビリー橋】
【アルマ橋】
フランスのパリのセーヌ川の橋
(参考文献 北嶋廣敏、パリの橋)
残念ながら、この本は絶版でした。
新しく出た次の本はとても良い本です。
橋を楽しむパリ(泉満明、丸善)
1.ノートル・ダム橋
1507年のころできた石橋の上には石造りの4階建ての建物が68軒も
建ち並んでいた。 1853年半月状の5個のアーチをもつ橋に生まれ変わり、
さらに1912年に船の航行の都合で、3個のアーチに改修された。
2.シャンジュ橋(両替橋)
13世紀の頃、この橋の上に多くの両替屋や金銀細工商が商いを営んで
いたので、この名がつけられたという。
1647年に石橋に再建された。
フランス革命の時には、牢獄からコンコルド広場の処刑場に向かう時
この橋を渡ることになっていた。
1860年に大改修を行い、アーチは3個になり
橋脚には皇帝ナポレオンを象徴するNの文字が月桂冠に飾られて付いている。
3.ポン・ヌフ(新橋)
現存するパリ最古の橋で、400年近い歳月のなかで何度も洪水や船の衝突
に遭いながら、一度も壊れることがなかった。
「ポン・ヌフのように頑丈そのもの」という表現が生まれる由縁である。
1851年から4年かけて大改修を行い現在の姿になった。
4.ポン・デ・ザール(芸術橋)
ルーヴルと学士院を結ぶ人道橋。
ルーヴルの別名はパレ・デ・ザールといい、橋の名前はそれに由来する。
この橋が架けられたのは1804年で、当時新しい建築材料として鉄が
注目されつつあり、パリ最初の鉄の橋である。
最初は、石橋か木橋しか見たことのない市民にとって
エッフェル塔同様みすぼらしい、不釣り合いだとの批判もあったが、
芸術橋の名前のごとく 多くの芸術家たちが集まってきて辻音楽士、
手書きの詩を売る詩人、大道芸人などが集まってきて、
ここに来る人々を楽しませた。
今ではすっかり周囲の景観にとけ込んで批判する声はまったくない。
5.アレクサンドル三世橋
1900年に完成されたこの橋は、パリ万国博を記念して、
時のロシア皇帝ニコライ二世が寄贈したものである。
(橋の名になっているアレクサンドル三世とは、ニコライ皇帝の父の名前)
博覧会会場へ通じる花道であり、ロシア皇帝の力と栄光を誇示するために
豪華な装飾が施されている。
6.アルマ橋
1856年 時の皇帝ナポレオン三世が出席して完工を祝うセレモニー
が挙行された。 (したがってシャンジュ橋の1860年大改修の際つけられたNは
ナポレオン三世のこと)
アルマとは仏英連合軍がロシアを相手に大勝利をおさめた
クリミア半島の地名からとったものである。
この橋で有名なのは、橋脚に飾られた4個の彫像である。
アルマの戦いで勇敢に戦った4人の兵士(アルジェ歩兵、戦線兵、砲兵、
猟歩兵)を描いたものだが、
中でもアルジェ歩兵に人々の人気が集中している。
それは、この兵士の立像がセーヌの水位計の役目をしているからである。
人々はセーヌが増水すると、兵士のどのあたりまで水がきているかを確かめ、
安心したり心配したりするわけである。
7.ビル・アケム橋
1906年に完成されたこの橋は、パッシー橋と名付けられた。
ビル・アケムとはリビア砂漠の名前で、1942年自由フランス軍が
ロンメル将軍ひきいるドイツ軍と戦い、勝利をおさめた場所である。
フランス人は橋の名前に、戦勝をおさめた場所の地名をつけたがるようである。
この橋は二階建てで、一階にはメトロ6号線が走っている。
8.ミラボー橋
この橋は1895年に完成した。
アポリネールがマリー・ローランサンへの思いを書いた
「ミラボー橋」はあまりにも有名だ。
シャンソンで歌われている。
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ われらの恋が流れる
わたしは思い出す 悩みのあとには楽しみが来ると
日も暮れよ 鐘も鳴れ 月日は流れ わたしは残る
☆ ☆ ☆
シテ島に架かるシャンジュ橋とそばの豪華なラ・コンシェルジュリ(牢獄)の
ながめは絵になる景観で、よく写真に出てくる。誰でもここに立つと往時の
王宮はなやかりし頃を思い浮かべるのだが、牢獄からシャンジュ橋を渡って
コンコルド広場の処刑場に向かったマリーアントワネットたちのことを考えると
やりきれなくなる。
アレクサンドル三世橋を寄贈したロシア皇帝ニコライ二世は、日本に来たとき
大津事件で警官に刺された。
しかも、ドイツから嫁いだ皇后が
その母方の祖母ヴィクトリア女王から血友病の遺伝子を
受け継いでいたから、息子も血友病となり、怪僧ラスプーチンが登場したりして、
結局ロシア革命で1918に一家は処刑された。
ドイツのダルムシュタットにニコライ二世夫妻を祭るロシア教会がある。
ダルムシュタットの名所(この中にロシア教会 Die Russische Kapelle もある)
ローランサンの母親は、未婚のままでマリーを産んだ。
マリーの恋人だった詩人ギョーム・アポリネールにも、戸籍上の父親はない。
二人は、ピカソを介してパリで知り合い、5年で別れた。
失意のアポリネールは、志願して戦場に行き、帰還して間もなく病死した。
ローランサンとアポリネールは、ともに一時期ミラボー橋の近くに住んだ。
セーヌ川の橋とテームズ川の橋を比較すると、
どちらも背景に世界史を作った国と時代を彷彿とさせるが、
テームズ川の方がはるかに大きい。
ロンドンタワーブリッジの全長260mに対して、
ポン・ヌフは全長229mといっても、中のシテ島の部分を差し引くと、
やはりセーヌ川の橋の方が小ぶりになる。
本格的橋梁となるとロンドンのほうになる。
パリには詩情を感じる。誰でもそのようである。
1993年の秋にも土木学会東北支部では、
ヨーロッパ橋梁構造調査団を派遣している。
デンマーク、パリ、ロンドンなどの橋梁を調査していた。
我々の見学先と違うのは、フランスでプロトン橋・タンカービル橋、
ノルマンディー橋など当時話題となっていたPC斜張橋、吊橋、複合斜張橋
を見学し、ユーロトンネル建設基地を見学したことだった。
我々の場合はデンマークの3つのリンクを見学したこと
(1993年には、その中の1つグレートベルト・リンクしか見学しない)
と ノルウェーまで行ったことが違う点であろう。
吊橋の中央径間くらべ
フランスのタンカービル橋1400m
デンマークのグレートベルト・リンクのイースト橋1624m
イギリスのハンバー橋1410m
明石海峡大橋 1990m
今、我々も調査報告書をまとめています。
来年になったら、学会の支部総会で1時間くらい私が報告する
ことになっています。
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