田辺朔郎

南禅寺境内の水路橋 それは若き技術者田辺朔郎(たなべ さくろう)の作った橋。 天皇が京都から東京に移ってしまったから、気落ちした京都市民を慰めるため、 天皇が資金をくださった。 高額な資金の使い道をいろいろ検討した結果、 琵琶湖の水を京都までひいてくることにした。 途中、南禅寺の境内があるから、アーチ橋を架けたというのが経過である。 1883(明治16)年 工部大学校(東大工学部土木工学科)卒業し琵琶湖疏水にとりかかる。 1891(明治24)年 東京帝国大学教授となる。 1896(明治29)年 北海道庁鉄道部長として北海道官設鉄道の計画・建設にあたる。 1910(明治43)年 京都帝国大学教授 1916(大正5)年 京都帝国大学工科大学長となる。 さて、明治の女流文学史であるが 『藪の鴬』はのちの雪嶺夫人三宅花圃(龍子)の作品。 この作者の田辺花圃は樋口一葉の先輩でライバル。 その花圃の『藪の鴬』は鹿鳴館の舞踏会の華やかな雰囲気がうかがえる会話 から作品ははじまる。 この作品を書いて原稿料33円20銭(いまのおよそ40万円)を得たのが評判となり、 一葉はこの作品を読んで、このくらいなら自分でも書けると 小説を書き出したと言われている。 田辺花圃は田辺朔郎の従姉妹で、『藪の鴬』に朔郎のモデルが出ているとは、 朔郎の子孫の指摘しているところ。 田辺朔郎は1歳の時に父親孫次郎が病死したので、叔父田辺太一の元に身を寄せた。 田辺太一の娘が田辺花圃というわけである。

漱石の坊っちゃん