日本書紀にある日高見国に由来すると言われる 北上川。 北上川の源流は御堂(みどう)である。 御堂駅は岩手町の北部に位置し、まさに北緯40度となっている。 駅の北東には、御堂駅の由来となった御堂観音があり、 北上川源流の”義家ゆかりの弓弭(ゆはず)の泉”がある。 北上川は宮城県に流れると、津山で2つに別れ 追波(おっぱ)湾に流れる本流と石巻湾に流れる旧北上川となる。 江戸時代に北上川の治水工事を進めたのは伊達政宗。 毛利藩の川村孫兵衛の土木技術の名声を聞いて、政宗は彼を 仙台藩に招聘し、北上川の大改修を命じた。 孫兵衛は1623年から工事に着手し、北上川、迫(はさま)川、 江合(えあい)川の三河川を一本化し、河口を石巻につけ替えた。 この工事により北上川の舟運は発展し、また流域の新田開発も進んだ。 とれた米は北上川を下り石巻まで運ばれ、そこから廻船で江戸に 運ばれて売られ、南部藩や伊達藩の財政を潤した。 北上川の舟運は2種類の船が使われた。流れが速く流量が十分でない ため水深の浅い上流では、「小繰船(おぐりぶね)」(100俵)、 水量も十分な下流では「ひらた船」(350俵積む)が使われた。 積み替えは黒沢尻(現在の北上市)で行われ、そこには南部藩の 御蔵奉行が置かれた。 洪水防止のため開削された新北上川と旧北上川が分かれる。 新北上川はその後東へ向きを変え石巻市(旧北上町地区)で 追波湾に注ぎ、旧北上川はそのまま南流し石巻市で石巻湾に注ぐ。
戦前に内務省は北上川5大ダム事業を計画した。
つまり、北上川本川・雫石川・猿ヶ石川・和賀川・胆沢川のダム計画である。
その第一として猿ヶ石川に田瀬ダムを建設し始めたのが昭和16年であったが、
太平洋戦争により事業は昭和19年に中止となった。
1947年(昭和22年)カスリン台風、1948年(昭和23年)アイオン台風と
北上川流域は2年連続で台風が襲来し、特に一関市付近は大きな被害を受けた。
一関・平泉地区は狭窄部で洪水が起こりやすく、さらに狭窄部から河口までの
川の勾配が緩やかなため下流に流れにくく、水が狭窄部とその上流であふれて洪水
被害が起きる原因となっている。
岩手県内では石淵ダムに始まる北上川5大ダム事業が本格化。
田瀬ダムも建設再開されてから、湯田ダム(和賀川)、四十四田ダム(北上川)、
御所ダム(雫石川)と次々に計画・建設されていった。
5大ダムは、洪水対策・発電・かんがい等にわたって活用されている。
御所ダムは水道用水として利用されている。