【卒業生がパキスタン、イランを越えてトルコまで旅行した旅行記です】
ラワルピンディーはパキスタンの首都イスラマバードに隣接する旧都市で、古くから
交通の要所として栄えてきた。
人口75万人のラワルピンディーは、車の騒音、人の声、動物の鳴き声などが
ゴチャゴチャとまじりあって、その喧噪に一瞬立ちどまってしまうほどだった。
パキスタンでは中国と違い英語が第2公用語のように使われていて、買い物をするとき
など楽だった。
パキスタン人と話をしていていちばん多く聞いた英語は”No Problem”だった。
バザールなどで品物を買おうか迷っていると商人が言う。「No Problem」問題ないから
買え!といった感じで、私もそのうちこの言葉が自然に出るようになってしまった。
こんな便利な言葉はないと思った。
パキスタンでは女性を見かけることは少ないが、女性は目がくっきりと大きく
鼻すじのとおった彫りの深い顔だちをしている。しかし、頭から布をかぶっていて
他人に肌を見せないようにしていた。
そのせいもあって、ちらっと見える女性の顔は神秘的で美しいものだった。
しかし、パキスタンでもイスラム教の影響で女性の外出や女性の活躍はまだまだ
のように思えた。
国民の90%以上がイスラム教徒であるパキスタン人は、よく私におまえも
ムスリム(イスラム教徒)か?と質問してきた。
私は今まで自分の宗教のことなど考えたこともなかったが、一応ブディスト
(仏教徒)だと答えると、きまってパキスタン人は不思議そうな顔やあるいは
とてもさびしそうな顔をする。
どうやら彼らは、日本人でも半数ぐらいはムスリムだと信じていたらしい。
彼らにとってイスラム教は自分の運命、人生そのものであるようだった。
若い人の宗教心はそれほどでもないが、少し歳をとった人になると、1日5回のお祈
りをかかさずしていた。お祈りの時間になると、バスの中であろうと電車の中であろうと、
おもむろにお祈りをはじめるので、宗教心のまったくない私はその信仰の深さに
ただただ感心してしまうばかりであった。
イスラム教の影響は食べ物にもあらわれていた。イスラム教では、豚肉は一切禁止
されていて、料理に使われる肉は羊が多かった。これがインドなどのヒンズー教に
なるともっと制限されるらしい。
パキスタン料理はほとんどカレーだった。カレーといっても味は日本のビーフシチュー
のようだった。主食はライスかチャパティーと呼ばれる、うすく焼いたパンのような
ものだった。これを手でちぎってカレーをつけて食べるのだった。
最初のうちはこれがおいしく感じていたのだが、そのうちカレーに飽きてしまった。
しかし、どのレストランに行ってもメニューはカレーだけだった。
パキスタンの人たちは毎日しかも1日2食このカレーを食べているそうだ。
私にはとても信じられなかった。
その他の食べ物では、シシカバブーという串にさした羊の肉を焼いたもので、
香辛料がたっぷり効いていておいしかった。
パキスタン人に限らず、あの辺の人はお茶(チャイ)がとても好きで、パキスタン
では非常に甘いミルクティーを飲んでいた。街のいたるところでチャイを飲みながら
おしゃべりを楽しんでいる人たちが見られた。パキスタン人は1日3回チャイを
飲まないと頭が痛くなるらしい。
ラワルピンディーには8月13日から19日と1週間いた。
その後パキスタン・アフガニスタン国境近くのクエッタというところに1泊2日
で列車で向かった。
パキスタンの列車は中国のものよりも人がいっぱいで、自分が最初に座った座席を
はなれてしまったらもう座るところはないような感じだった。一応座席は指定に
なっているのだが、そんなことを気にするような人間はパキスタンには見当たらなかった。
そのような列車の中で一晩をすごしたのだが、そこでも私は毛深い大きな身体に
はさまれて、小さくなって死んだように眠った。
クエッタは砂漠の中の街で、シーア派と呼ばれる頭にターバンを巻きつけた男たちを
よく見かけた。シーア派の人々は見た目にもとても怖く、しかもシーア派の男の人
には顔などに大きな傷跡が多く見られた。
そんな男の人が向こうから歩いてきたりすると、思わず道をあけてしまいたくなる
ほどの迫力があった。
クエッタではシーア派の他にアフガニスタン人が多く住んでいて、私は一度
アフガニスタン人の経営するジュータン屋に引き込まれたが、ジュータンなんて買える
はずのない私は帰ろうとしたが、アフガニスタン商人は突然怒りだした。
彼はよくわからない英語で「日本人は金をたくさんもっているくせに、みんな金がない、
金がないという」というようなことを叫んでいた。
私もこの男にもっと言いかえしたかったが、こういう場合に使える英語を私は
知らなかったので、結局得意の日本語で反撃してやった。
私はこんな時こそもっと英語を勉強しておけば、この変なアフガニスタン人に
とどめをさせることができたのにと思った。
そのアフガニスタン人ともめた後、私はホテルに帰ろうとしたが、あたりはすっかり
暗くなっていた。私はなんとなく怖さを感じた。パキスタンでも街灯はほとんどなく、
真暗になった夜道を歩いた。
暗闇の中にひまそうに私のことをじっと見ているパキスタン人やアフガニスタン人が
見えた。私はときどき後ろをふりかえりながらホテルへ急いだ。
クエッタに2泊3日して私たちは22日にいよいよイランに向かって列車に乗りこんだ。
私たちが目指したのはパキスタン・イラン国境のイラン側の街ザヘタンだ。
この列車も1泊2日だった。しかも、私たちが入るところなどなかった。
しかし、無理矢理に列車に乗り込み、なんとか床に自分の座る場所を確保した。
列車にはパキスタン人やアフガニスタン人あるいはイラン人もいたかもしれないが、
いろいろな国の人がいた。しばらくすると近くに座っていた私と同じくらいの歳の
若者のグループがどこからかコンロとなべをとりだして料理をはじめた。
たぶんまたあのカレーを作るんだろうなと思ってみていたら、やはりカレーだった。
そして私にも食べろと言うから、私は実のところもうカレーは食べられないなと
思っていたが食べた。
それにしても列車の中で、しかも人が座る場所もないという状態で料理を始めるなんて
彼らには心の余裕がありすぎるのではと思った。
列車は夜気づくと砂漠の中を走っていた。今までに見てきた荒地のような砂漠とは
違い、今度は粉のような砂の砂漠だった。
夜中に駅に停車し、私がホームに飛びおりると、ホームはなく、ただの砂だった。
真暗でよく見えなかったが、月明かりの下に見えるものはあたり一面砂だった。
夜、列車の床に寝ていると、列車に堂々とあいた穴から吹き込むベビーパウダー
のように細かい砂が私の鼻や耳の中、髪の毛など体中に降り積もった。閉じた目を
開けようとすると、目の周りについた砂がセメントのようになっていて
なかなか開けることができなかった。
そんな列車の中でみんな身体をかさねるようにして寝た。私のお腹もとなりの
パキスタン人の枕になり、私の足は下の人の頭の上に重なりといった具合に、
自分の一番楽になれる体勢を維持するために私は努力した。
もし寝返りをうとうものなら、その空いたスペースに隣の人が身体をすり入れ、
自分は2度と前の体勢には戻れなくなってしまうのだった。
私は一晩中意地を張って自分の寝る場所を維持し続けた。そんな長い夜をすごし、
次の日の昼すぎ私たちはイランの国境に到着した。
パキスタン・イランの国境は、砂漠の中にある列車の終着駅の小さな街で、
そこにはラクダの群がいた。ラクダは動物園で見たことがあったが、こんな自然の
姿のラクダを見るのは初めてだった。
パキスタン側の出国の長い列にならび出国の手続きをすませ、国境に向かった。
国境の建物にはホメイニ氏が大きく描かれていて、私たちを迎えてくれていた。
私たちはイランに関してのガイドブック、情報はまったく無かった。
私はイランというとどうしても砂漠の中に立ちならぶ石油コンビナートみたいな
風景を思いついたが、それらしき建物は見当たらなかった。
いよいよイランという未知の国に入国となった。イランに入ると国境の壁には
”くたばれアメリカ”という意味だと思われる反米的な文句が大きく書かれ、
高射砲を積んだジープが往来しており、今までとは違う殺気を感じた。
はたしてイランの人間はどのような人なのか?日本人をどういう風に考えて
いるのか?カレー以外の食べ物はあるのか?私たちはさまざまな不安をかかえながら、
入国手続きをすませ、ザヘタンという国境から2時間ほどのところにある街に
行くためにバスターミナルへと向かった。
中国西部、パキスタンからイランまでの地図