土田氏のアジア大陸横断旅行記その3

【いよいよイラン、そしてトルコ】

ザヘタンには23日の夕方に到着した。ザヘタンに着くまでの2時間足らずの間に
バスは3〜4回検問所らしき軍隊の施設で停車し、その度、無造作に拳銃を手に
した軍人がパスポートチェックのためにバスの中に入ってきた。

自分の目の前を拳銃が行ったり来たりした。その軍人は拳銃をまるでそれが
おもちゃのものであるかのように簡単に扱うので私はびくびくしていた。

ザヘタンではまずホテルを探したが、ザヘタンという街では夕方にもかかわらず
ほとんど人を見ることがなかった。

もしかすると戦争が始まってみんなどこかへ避難してしまったのでは?と不安に
思ったが、この問題は夜になってすぐに解決した。

これはただ単に昼間は暑すぎて、人々は家の中で昼寝でもして夕方日が沈むころ
やっと彼らは行動を始めるのだった。ここに住む人たちに限らず、あの人たちは
本当に仕事をしているのだろうかと思うほどのんびりしていた。

イランの人たちは、ほとんどの人が英語を話さないのでちょっとしたものを買ったり、
レストランに入ったりしたとききは、やはり身振り手振りの会話になった。

イランでの食事も心配していたようにカレーばかりだったが、私たちは
サンドイッチ屋さんを見つけ、うれしくなってそこでサンドイッチを思いっきり
食べた。そのサンドイッチは、パンに焼いた羊の肉とトマトとピクルスが入って
いただけだったが、なんとなく食べなれた日本の味という感じがして、
しばらくの間サンドイッチ屋さんに通うことになった。

ザヘタンに1泊して8月24日テヘランに向かって出発した。テヘランまでは
バスで27時間ほどだった。

私たちが乗ったバスは意外と立派なバスではあったが、残念なことにエアコンが
ついてなかった。

バスは砂漠の中をひたすら走り続けバスの中の温度は40℃をかるくこえていた。
それでも窓とカーテンを閉めきりひたすら暑さにたえるだけだった。
窓のちょっとしたすきまからは熱風が入り込み、のどがはりつきそうになる。
カーテンのすきまからは砂漠の強い日の光が照りつけシートの金属部分を熱くさせた。

そして25日イランの最大の都市テヘランに到着した。テヘランはさすがに都会と
いった感じのところだった。テヘランは思ったよりも近代的でコンクリートのビルが
たちならんでいた。

テヘランでおもしろかったのは、チェン・マネ屋と呼ばれる、いわゆる闇の両替屋が
堂々と路上で商売しているところだった。

中国などでは道を歩いていると、どこからか人がよってきて”チェンジマネー?”
と話しかけてくるぐらいだったが、テヘランでは、すごい札束をスーツケースや
バックにつめこんで商売していた。

パキスタンやイランではドルが強く、イランでは銀行で両替するのにくらべ、
闇の両替屋とでは、お金の価値は10倍とも20倍ともいわれていた。

私もパキスタンで使いきれなかったルピーをイランリアルに闇で両替したが、
お金の桁が違うせいもあって、すごい札束になった。数えるのも途中でいやになる
ほどの量になった。

イランの人々は、自分の国のお金などまったく信用していないようだった。たしかに
イランのお金は国外に出るとただの紙きれにしかならないようだった。

テヘランではイスラム教の国ではめずらしく、よく女性を見かけた。テヘランの女性
はとてもおしゃれで、黒い布のかわりにスカーフで顔をかくし、真夏なのにみんな
トレンチコートみたいなものを着ていた。

まったく個人的な感想だが、私が今回の旅で一番多くの魅力的な女性を見ることが
できたのは、このテヘランだったと思う。

テヘランあたりで私は最初の頃おいしいと思っていたサンドイッチにもあきがきて、
食欲もなくなってきていた。

イランに入ったころから下痢が続いていた。この下痢は日本に帰ってきても
しばらく続いたのだが、とてもひどいものだった。

何が原因か?と考えれば、それは食べ物、飲み物、口に入る物すべてが原因である
ようだった。生水を飲みたいだけ飲んでいたし、食べ物も日本では見たこともない
ような物をよく食べていたから、当たり前といえば当たり前だ。

とにかく日本から持っていった正露丸が効くような状態ではなかった。テヘランで
1日がすぎ8月26日、もう夏休みも終わりに近くなったころ、私たちはこれから
先のことを考えていた。

もう休みも終わるし、かといってテヘランから飛行機に乗るのも安いチケットなど
手に入らないし、イスタンブールまであと何日かかるのかと思っていた。

そんなとき、イスタンブール直行の中距離バスを見つけた。このバスはテヘランから
イスタンブールまで3泊4日で行くもので、その3泊というのは、バスの中で寝る
ということだった。

これに乗れば4日でイスタンブールに着けるのだが、疲れが限界に近く
しかも下痢がひどい私はどうも気がすすまなかった。結局はこのバスに乗って
イスタンブールに行くことになった。

このバスが私たちの最後のやま場となった。私は今回の旅では、いろいろなバスや
列車に乗ったが、やはりバスや列車に長い時間乗っているというのは得意ではなかった。
どんなきたないホテルでも、そこにベットさえあれば私は充分だった。

8月27日私たちは最後の目的地イスタンブールを目指してバスに乗り込んだ。

バスに乗って2日目にトルコの国境が山の上に見えるところの街まで着いたのに、
バスはそこでしばらく時間待ちをすることになった。

私は食事のための1時間くらいの休憩なのかと思っていたが、しかし結果的には
12時間も待たされたことになった。

私は12時間もいつ出発するかわからないバスを待っていることもできず、同じ
バスに乗っていたイラン人と散歩に行った。そしてバスに戻ってみると、そこに
待っているはずのバスがなかった。私たちはバスが出発してしまったことに気づき、
あわててタクシーでバスを追いかけて、バスをつかまえることができた。

もしあのとき、いっしょにバスに乗り遅れたイランの人がいなければ、私はどうした
だろうか?そう思うと今でもぞっとする。

国境での手続きに時間もかかり、結局国境をこえるのに24時間近くかかった。
トルコに入られたのは夜中というか朝方に近かった。

お金もほとんど両替できず、イスタンブールまであと2日あるのに、私はトルコの
お金をほとんど持っていなかった。バスが食事のために休憩するたびに、私は
イランの人に食事をごちそうになった。

私は今回の旅では、いろいろな人に大変お世話になったが、あちらの人は
そういうことに関して、とても自然にふるまってくれた。

イランの人々もイランから外国に出ると、とても開放的になり、どこからか
お酒も出てきた。イランの人はふだんはイスラム教の教えで禁酒しているが、
やはり外国に出ればお酒を飲むらしい。しかし、その酒を一番最初にぐいっと
飲んだのはバスの運転手だった。

それからイスタンブールに着くまでの2日間はバスの中はデイスコみたいになった。
同じカセットテープが2日間止まることを知らずに音楽を流し続け、バスの中で
みんなが踊っていた。

私も一緒になって踊らざるを得ない状態で踊った。2日間同じ音楽を聞いていた
せいか、私も2日目には自然と音楽を口ずさんでいた。

テヘランを出て4日目、8月30日私たちはイスタンブールに到着した。
そこには青い海と青い空が広がっていた。そういえば最後に海を見たのは中国の黄河
の黄色い海だったのだと思う私は、改めて旅の長さを実感した。
イスタンブールの海は私にとって、とても印象的に映った。

イスタンブールの街はとてもきれいで、私が今まで通ってきたどの街よりも整備されて
いた。ヨーロッパや日本からの観光客も多かった。東西文化の合流地点といわれる
イスタンブールはもうヨーロッパの雰囲気でいっぱいだった。

イスタンブールは私にとっては、もう楽園のようなところで、これほど暮らし
やすいところはないなと思った。ほしいものは何でも手に入るし、気候も申し分
ないところだった。

イスタンブールではこれといった不便も感じず、私もここにきて初めて観光客らしい
行動ができた。しかし、その反面私には刺激が足りない街でもあった。

     トルコの写真と地図

イスタンブールでは、ハマムといわれる風呂に行った。トルコの風呂といえば、やはり
若いおねえさんが...と考えてしまうが、実際はひげをはやしたおやじが太い腕で
力いっぱいマッサージしてくれるところだった。

ハマムの中は、サウナのように蒸気がたちこめていた。そして、大きな大理石の床に
お客たちが寝そべっていた。そこにひげのおじさんが来て石鹸と垢こすり用の
手ぬぐいを持ってきて私の身体を洗ってくれるというものだった。

そのおじさんの力がはんぱでなく、身体中の関節がボキボキと音をたててほぐれていった。
そして手ぬぐいで身体中の垢をとってくれるのだが、これが自分でもびっくり
するぐらいよくとれて恥ずかしくなった。垢がだんごのようにごろごろと出てきた。

そして私は身体もきれいになり、次の日は床屋へ行った。別にイスタンブールで
床屋に行かなければならない理由などまったく無かったが、ただおもしろそうな気が
したので行ってみた。

床屋に行くと私は床屋のおじさんに「イスタンブールで一番人気のある髪型にしてくれ」
と英語で言ったが、おじさんはどうやら私の英語は理解してくれなかったらしい。

おじさんはタバコを吸いながらはさみで無造作に私の髪を切っていった。
テレビでやっているサッカーの試合が気になるらしく髪の毛を切りながら
テレビをちらちらと見ていた。

そして、彼がたばこを2本たて続けに吸い終わるころ、彼は髪を切り終わって
しまった。そして切った髪を手ではらって、それで終わりという実に簡単な
ものだった。

そしてさっぱりした次の日、私たちはやっとのことで手に入れた日本への航空券を
手ににぎりしめ空港へと向かった。

飛行機というのはあっけないもので、私たちが40日かけてやっとの思いで
通ってきた道のりをわずか20時間もかからないで飛んでしまうのだった。
私は飛行機の中で今までのことをいろいろ思い出した。

私は今回の旅でいろいろなことを感じることができてとても幸せだったと思う。

世界にはいろいろな文化や風習の違う人々が生きていて、日本という国は
その多くの国の中の小さな国の1つにすぎないということも理解できた。

学生という立場からいうと、私は自分の知りたいことはどんなことでも勉強できる
という、とても恵まれた環境の中にいるということを感じた。私はまだまだその恵まれた
機会を充分に使いきっていないのだと思う。

日本は今は一般的には豊かになったと言われている。しかし、もっといろいろな
ことを知りたい、感じたいという欲は、まだまだ豊かになっていないと思う。

またある意味では、私は向こうの人の”今日できなければまた明日やればいいさ”
という心の余裕というか、いいかげんさがとても羨ましく感じた。ものごとを
1時間とか1日とかそういう小さな単位で考えずに、1年とか一生とか、もっと
大きな単位で考えることも私は必要だと思う。

旅については、私がどんなに説明しても実際に行ってみなければ、その旅は感じる
ことはできないと思う。

また機会をつくって外国に行って、いろいろなものごとを見て、聞いて、感じる
旅をしていきたい。

   卒業してから彼は博士号を得て、さらに技術士試験にも合格しました。


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       西域の道と橋

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