土田氏のアジア大陸横断旅行記

【卒業生の土田君が、大学3年生のとき平成2(1990)年夏に
中国からパキスタン、イランを越えて トルコまで旅行した旅行記です】

私が今回の旅行を思いついたのは今年の6月ごろだったと思うが、私の外国へ行って
みたいという願望は私が高校生ぐらいのころからあった。

私は高校生時代は理科系のクラスではあったが、地理の授業は比較的関心があり
なんとなく地図帳などを眺めているのが好きだった。

高校時代の地理の授業というものは一般的な内容を教えられることが多いが、
そんな授業の中で先生が話してくれた海外での体験談などを聞いて、私は外国にますます
興味をもっていった。

その話の中で特に印象に残っているのはトルコという国についてのことである。
ロシアにいじめられたトルコは日露戦争に勝った日本にとても親近感をもっていて、
日本人はトルコでは歓迎されるということだった。

ただそれだけでトルコに行こうと思ったわけではないが、トルコという国
特にイスタンブールというところに強い魅力を感じていたのは確かである。

さて、そんななかで私たちが考えた旅の計画は、最初は今考えてもとんでもない計画だと
思うが、”シベリア鉄道ユーラシア大陸横断の旅”だとか”ヒマラヤ山脈縦断の旅”
だとか最後には”40日間世界一周”という案まででた。

海外経験のまったくない私たちにとって初めての海外旅行をどこにするかというのは
重大な問題であった。

結局、何かの雑誌で見つけた”3万円代でヨーロッパまで行ける”という言葉にとびついて、
ユーラシア大陸をシルクロードをたどって、しかもすべて陸路でヨーロッパまで行く
という旅をすることになった。

私たちの計画した大まかなルートは、大阪から中国の上海に渡り、中国を横断し、
パキスタン、イラン、トルコを横断し、イスタンブールに着き、あとはヨーロッパ
めぐりをするというもので、日数は40日を予定していた。

ユーラシア大陸地図(あまりにも杜撰で関係国の皆様すみません。宮本)

実際、細かい計画など立てられるわけもなく、とりあえずパスポートやビザ、旅行者用
小切手(トラベラーズ・チェック)、旅に必要な道具をそろえることにした。

パスポートやトラベラーズ・チェックを取得するのはもちろん初めてのことで、
その1つ1つを取得するにしたがって本当に外国に行くのだという喜びと緊張感が
あふれていった。宿泊事情が悪いと聞いていた私たちはテントとコンロまで準備した。

伝染病に備えて一応コレラと破傷風の予防接種まで受けた。予防接種は受けても
病気になる人はなると聞いていたが、変なお守りを持っていくよりは頼りになる
と思い受けることにした。

大阪→上海の鑑真(ガンジン)号という7月24日発のフェリーのチケット
(¥18,400)を購入し、パキスタンのビザ、国際学生証、保険の加入などを
済ませて旅の準備は万全かと思われたが、旅のコースが上海までしか決定しておらず、
その先のルートは船の中の3日間で考えるということに決定し、私たちは出発の日
を待った。

大切な旅の予算だが、US$800(¥120,000)と¥30,000の
日本円の現金と頼りのクレジットカードを持って行くことにした。本当は20万円
ぐらいあればいいと思っていたのだが、休み前は何かと出費が多く15万円ぐらいしか
作れなかったのだ。

準備はほとんど整ったと思っていても何か足りないものがあるのではと不安だったが、
それは今思うと、自分が外国の言葉や文化などの知識がまったくないことに気づいて
いなかったことが原因だろう。

実際、出発前は中国語なんかは「ニーハオ」と「シェシェ」の2つしか知らず、
パキスタンやイラン、トルコなんかは何語をしゃべっているのかすら考えようとも
しなかった。ましてや、パキスタン、イラン、トルコがイスラム教の国などという
ことはまったく眼中になかった。

外国での生活ではその国の言葉は当然のことながら、宗教、習慣などの知識は知って
おかなければならないことなのだと、行ってみて初めて実感することになった。

とにかく日本では外国の真の文化に触れることは極めて少なく、そのような日本文化
の中でぬくぬくと育った私に対して、初めての外国の文化習慣が強烈な衝撃を
与えたのは言うまでもないことである。

そのような中、7月22日夏休み中のレポートそして休み明けの試験のことなどは
ほとんど無視して、私は青春18切符をにぎりしめ大阪をめざして盛岡を旅立って
行った。

大阪に着いたのは7月24日の早朝だった。
フェリー埠頭では乗船手続きとか出国手続きと、いきなり何をしていいのかわからずに
とりあえず人がならんでいるところに自分もならぶことにした。

パスポートに出国のスタンプをもらうと何となくうれしくなって、何か1つ大事な
ことが終わったような気になった。

ガンジン号の客は半分が中国人で残り半分は私たちと同じような学生たちだった。
中国人が意外に多かったので私は少しびっくりした。船の船員は案内の人から
レストランの人まですべて中国人で、乗船すると案内の人が待ちかまえていて、
早口な中国語で忙しそうに何かをしゃべって私の手首をつかんで部屋まで案内した。

フェリー自体は日本のフェリーとほとんど変わらなかったが、やはり、中国船籍
ということで、どことなく中国の雰囲気がただよっていた。

上海までは2泊3日で到着したのだが、フェリーの中では上海に着いてからの
予定を立てればいいものを私たちは予定などすっかり後回しにして毎日「暇だ暇だ」
とぼやきながらデッキに出て身体を焼きながら360度の水平線を眺めていた。

しかし、360度の水平線というのも最初のうちは「地球はやっぱり丸かったんだ」
と感動しているが、しばらすると水平線などどうでもよくなってしまう運命だった。

そんなときどこからか鳥が飛んできたりすると、ついつい鳥に話しかけてしまったり
するようになってしまった。

船の中での楽しみの1つに食事があったが、レストランでは中華料理と和食の2種類
のうち好きな方を食べることができたが、私はやはり中華を食べていた。これが
本場の中華料理というよりも中国人が食べる中華料理なのかと思いながら食べた。
味は日本のものとくらべれば違うがやっぱりうまいと思った。

レストラン以外でもちょっとしたお菓子やジュースを売るところもあり、私は
そこに行って何か変わったものを見つけるのを楽しみにしていた。その中で梅ぼし
をさらにすっぱく味づけお菓子やみかんの皮を同じように味をつけたお菓子は
強烈だった。

私にはこの味がどうしても理解できなかった。これがおいしいのだろうか?
この変なお菓子をうまそうに食べている中国人を想像すると、私の中国への不安は
ますます大きなものになっていった。

フェリーに乗っていた3日間天気は最高に良かった。夜は空で空一面に広がる
まばゆいばかりの星を見ていた。あれだけの星を見られるチャンスはめったにないだろう。

フェリーの中では他の学生たちといろいろ話をしたが、やはり話題はこれから行こうと
している中国についてのことだった。

彼らのほとんどは中国あるいは他の国に行ったことのある人たちで、なかには中国に
留学したことのある人までいた。私たちはそういう彼らの話を聞いてこれからの参考に
しようと思った。

しかし、その話の内容といったら「中国はあぶないやつが多い」とか「中国の西の
方に住むウイグル族はナイフをもっていてそのナイフで指を切られる」とか
パキスタンの話になると「パキスタン人はホモが多い」などともうほとんど脅しの
世界になってしまっていた。こんな話を3日間聞かされた私たちは旅の計画どころ
ではなくなってしまった。

やはり1度でも外国に行ったことのある人の話には説得力があり、上海に着く前
の日の夜には私たちの恐怖は頂点に達していた。

そしてその夜私はビールをぐっとひと息に飲みほし眠りについた。上海上陸は
いよいよ明日に迫っていた。

大阪を出発して3日目(26日)いよいよ上海に着く日だが、昼ごろになって起きた
私は、昨日の恐怖心もすっかり消えて、デッキに上がるとすぐに今までとまったく違う
気配を感じた。そこには昨日までのからっとした青い空、青い海はなく、じめっと
重い空気と黄色い海が私を待っていたのだ。

よくよく聞いてみると、そこは黄河の河口付近であった。ということは、ここはもう
中国 ということになるのだ。黄河の水は黄色いということぐらい私も知っていたが、
これほどまでに汚く見えるとは思ってもいなかった。これはまるで台風が去った後の
泥水で満たされた海のようであった。

そのうち中国の船がどこへ行くのか列をなしてすれちがっていくようになった。
この船がまた汚く日本のニュースで見たどこかの国の難民船のようであった。
大きなタンカーらしき船もあったのかと思う程、錆だらけの薄汚れたものだった。
そういった船が次から次へと列をなして私たちの乗ったフェリーのすぐ横を
逆方向に向かってすれちがっていったのだ。

そのうちフェリーの両側に陸地が見えだして、ここが黄河であり中国であることを
実感した。

私の心はとりあえず中国を見たということだけでひどく感動していた。
そして、いよいよ上海上陸というときがきたのだった。

上海に着くと入国手続きがあったが、そこでもわけがわからないまま流れにしたがって
手続きをすませた。そこで日本とフェリーの中でつかってしまった¥5000の
残りの¥25,000を中国元(¥25,000→758元、1元=約33円)に
両替し、とりあえず市内に向かうことになった。

建物の一歩外に出るとそこには未知の世界があった。街全体が黄色がかっていて湿った
重い空気が生ゴミのにおいとともに私を包みこみ、私は体全体から汗がどっと吹き
出すのを感じた。

私たちはガイドブックを片手に市内へと歩いて向かった。市街地になんとか
たどり着きホテルを探していると、中国の学生だと名乗る4人組の中国人に出会った。

彼らのうちの1人は日本語がぺらぺらしゃべれる人だった。

話をしているうちにすっかり友達になった私たちは、彼らになかなか空室がなくて困って
いたホテルを何とか見つけてもらった。

すっかり気をよくした私たちは、夕食を彼らにごちそうすることにして、彼らの
知っている食堂へ行き、いろいろな中華料理とビールを飲んだりした。

お金を払うときになって、392元(約13,000円)と聞いて私たちはびっくりした。
いくら7人分でも中国でしかも普通の食堂でこれは高すぎる。

しかし、気の弱い日本人の私たちはその場ではあまり文句も言えず、調子のいい
彼らと別れてホテルに帰ることにした。しかし、彼らに教えられたように歩いて
いっても、どこにもホテルはなかった。私たちは上海に着いたその日に、ぼられて
迷子になってしまったのだった。

日も暮れて真っ暗な上海の街を私たちはぶつぶつ愚痴をこぼしながらとぼとぼと
歩いた。ぼられたことを実感するにしたがって腹立つ感情を抑えつつ、私たちはひたすら
歩き続けた。

そして外で夕涼みをしている中国人に「ニーハオ」と声をかけ、その後はホテルの
名前を連発して、そのおじさんに紙とペンを渡した。

その人はどうやらバスに乗れと言っているらしく、バスの番号を書いて渡してくれた。
そして、私たちは言われた通りバスに乗り、やっとの思いでホテルにたどりついた。

それにしても記念すべき第1日目は悲惨なものだった。ぼられたお金はこれから
先の旅の授業料だと思えば安いものだった。

そして、私たちはこの日”人を簡単に信用するな”ということまで教えられて
しまったのであった。

このようにして私たちの上海での長い長い第1日目は終わった。

次の日、私たちはウルムチという中国の西端にある街に行くための列車の
チケットを上海駅に買いにでかけた。

中国では日本と違い、列車が走っていることとその列車に乗れることとは別なのだ。
なぜなら、チケットを手に入れるのが非常に困難だからである。私たちは幸いにも
次の日のウルムチ行きの硬座のチケットを手に入れることができた。

硬座とは字の通り硬い座席のことで、中国では軟座と呼ばれる日本でいう一等寝台
のようなものから硬座まで4ランクの種類があり、硬座はその中で1番安く庶民的な
シートだ。

料金は269元(8,850円)と上海−ウルムチ間の距離からすればだいぶ安いと思った。

しかし、中国では外国人はなにかにつけ割増料金をとられるのだった。この場合も
私たちは人民料金の2倍の額を支払った。この外国人料金というものは中国独特の
もので、ホテル、列車、長距離バスなどいたるところで請求された。

私たちは上海に2泊しかしなかったが、上海というところは気候がむし暑いせいか、
なんとなくどんよりとしていて、私はどうしても好きになれなかった。

中国に着いて最初のころおもしろいなと思っていたことは、中国人は外国語の商品名
などを全部中国語に直してしまっていることだった。コーラとかスプライトとか
みんな漢字のわけのわからない名前になっているし、7upなどは”七喜”とか
書かれていた。私は七喜にはなんとなく納得してしまったが、ここまで漢字に
こだわることはないではないかと思った。

上海の街を歩いていて気がつくことは、流行っているのか知らないが、若い連中は
テニスルックのような感じで短パンにポロシャツなどを着ている人が多いこと
だった。少し年をとった人になると、日本ではもうほとんど見かけることのなくなった
白のランニングシャツに短パン姿の人が見られた。

あとなぜか若い青年から年寄りまでみんな暑いせいか、小さな汚いタオルを大切
そうにビニール袋なんかに入れたりしながら持ち歩いていた。どうやらタオルは
上海人にとってなくてはならないものらしい。

上海の町並みといえば石造りのような古い建物が多く、ひと昔前の日本のような
気もした。

本題の橋だが、橋は日本でもよく見られるようなトラス橋などが見られた。
日本と違うのは、橋は夕方になると夕涼みの絶好の場となり、人々の憩いの場と
なることだろう。道路なども上海はよく整備されていたが、交通ルールは
そんなもの無いかのようにひどく乱れていた。

細かなところをあげるときりが無いが、上海というところは数十年前の日本を
見ているような、それでいて独特な文化があり、人々は妙なこだわりを
ひたすら持ち続けているように思えた。

上海−ウルムチの列車は3泊4日で80時間ぐらいだった。私たちはミネラル
ウォーターやパンなどを買いこみ28日の昼、上海を出発した。

最初の1日目はこれから先80時間も列車の中ですごせばいいのかと不安になって
いたが、2日目からは同じウルムチまで行く上海の大学などと話をして時間をすごした。

それにしても中国の人たち(他の国の人たちもそうだが)は長距離の旅にとても
慣れていて、時間のつぶし方、使い方がとてもうまいと思った。

日本人なら、1日のうちに何十回、何百回も時計を見て、深いため息をつくところ
だろうが、彼らはおしゃべりに夢中で時計を見る暇もないといった感じだった。

私は彼らが1日中何を話しているのかと思った。

列車の中の4日間で私は彼ら学生から中国語を教えてもらった。英語で中国語を
教えてもらったわけだが、なんだか自分も国際人になったものだと思った。

列車の中での食事は食堂車などにも行ったが、ほとんどは中国の学生たちが
食べているものをわけてもらったり、駅にとまった時に駅の売り子さんが売りに
来るパンやくだものを食べていた。

中国の人々は、列車に乗るときには食べ物をビニール袋いっぱいにつめてきていた。
彼らのビニール袋には、インスタントラーメンやかんづめ、パン、たばこなどが
つまっていた。インスタントラーメンは少し食べてみたが、味が全然なくて、
どうしてもうまいとは思えなかった。

列車の窓から見える景色はとても期待していたのだが、3日間ぐらいまったく変化
のない景色で中国の広大さを知ることができた。

夜ともなるとまわりは真暗で、列車がどっちの方向に向かって走っているのかも
わからなくなるほどだった。しかし、3日目、4日目になると黄河や山脈が見え
だして、なんだか心がうきうきするようだった。

夜になると空気が乾燥してるせいか、だんだん寒くなった。夏だというのに夜は
長そでのトレーナーでも寒いぐらいだった。

3日目の夜に私にとっては重要な事件がおきた。私が昼に買って明日のために
大切にしていたオレンジジュースのボトルが盗まれたのだった。向かいにいた
中国人のおじさんの話によると、開けてあった窓の外から手がのびて、その
ボトルをとっていったということだった。

私がやっとおぼえた中国語で買ったボトルなのに残念だった。やはり中国人を
なめたらいけないようだ。

7月31日私たちはようやく(2日目からはあっという間に時間がたってしまった)
ウルムチに到着した。

列車の中で友達になった中国の学生ロー・ウェイ・チンにホテルを紹介してもらい
ホテルまで案内してもらい、私たちはそこに落ち着いた。

ロー・ウェイ・チンはとても親切で私たちの面倒をよくみてくれた。彼のおかげで
外国人と話をするのが楽しくなった。

ウルムチというところは、中東かロシアかと思うような人たちでいっぱいだった。
彼らがウィグル族であった。彼らはウィグル帽という四角い帽子をかぶり、
なんとなく日に焼けたような赤黒い顔をしていた。

ウルムチは漢族とウィグル族が共存する国で、とても中国とは思えなかった。
街自体は中国の西端の街とは思えないくらい近代的で、コンクリートのビルが
いたるところで見られた。

それでも舗装された道路を自動車と馬車がいっしょに走っているのは、おもしろいと
思った。

私はウイグル族はとてもこわいという印象をもっていた。確かに彼らの中には、
顔に深い傷あとがある人もいたし、ほとんどの人は腰からウイグルナイフという
派手な装飾をしたナイフをさげていた。

しかし、そのナイフは彼らにとっては必需品で、そのナイフで彼らは器用に
西瓜やハミウリというメロンのようなくだものを切って食べていた。

ウルムチの生活では、中国の西端というのに、時間は北京の時間に合わせている
おかげで、時間の感覚がおかしくなった。北京との時差が4時間近くあるので、
時計が夜の11時でも外はまだ明るいといった感じだった。

ウルムチで2泊して私たちはカシュガルというパキスタン国境に近い街まで
2泊3日のバスに乗った。(8月2日 バス 約2200円)

長距離バスというのは長距離列車よりもよりハードだった。1日目は未舗装の
山道を走り、2,3日目はほとんど砂漠のような荒地を走った。

寝るのは一応旅舎という簡易ホテルのようなところに泊まるのだが、これが
ひどく汚かった。しかし、疲れきった身体にはそんなことは関係なく
私は死んだように眠った。

バスの旅は数時間おきに、日本でならドライブインと呼ばれるところで休憩する
のだが、そこでは食事をしたり、水筒にお茶を補給したりした。

私がドライブインで見た最初のトイレは私の目に強烈に焼きついた。それはレンガ
か何かでできた小屋で、中はうす暗く穴のあいたコンクリート板のようなものが
横にならんでいるだけのもので、仕切など全くなかった。

そのうす暗いトイレは中国の人々でいっぱいで、私はとてもいけないものを
見てしまった気持ちと、もうここまできたら覚悟するしかないのかという
ひらき直りの気持ちでいっぱいだった。しかし、私はそのトイレでは勇気が出ず、
用事をすませることはできなかった。

次に立ち寄ったトイレも同じようなレンガ造りっぽい小屋であったが、そこには
横だけ腰ぐらいの高さまで仕切のコンクリートの板があった。そこもうす暗い中に
人がいっぱいだった。

私も横だけでも仕切があってラッキーと思い、そこで中国の人々にまぎれこんで
することにした。トイレの穴に落ちないように気をつけて私もしゃがんだ。
私の目の前にはたばこを吸いながら私が終わるのを待っている中国人の姿が
あった。私はとてもひらきなおった気持ちになった。

中国ではトイレの無い場合、小はもちろんのこと大もそのへんの砂漠や川原で
すませてしまう。ときには女性もちょっとした茂みでやっていたが、私は
それが気になってしようがなかった。

そんなことをしながら私たちは8月4日カシュガルに着いた。カシュガルは
パキスタン国境沿いにある小さな街だ。そこはほとんどウィグル族で、日本人
の顔に似た漢族の姿を見かけることは少なかった。この街が中国というのは
信じられないくらい中国とは違っていた。

3日間のバスで身体も精神もつかれきっていた私たちはカシュガルでしばらく
休むことにした。カシュガルは空気も乾燥していて、日かげにいるととても涼しく
すごしやすかった。

カシュガルという街の交通は馬車とろば車が主であった。街中動物園のような
馬ふんのにおいと砂ぼこりにつつまれていた。ウルムチやカシュガルでは、くだものが
豊富で毎日おいしい西瓜やハミウリを食べることができた。

カシュガルで4泊し、8月8日パキスタンに向かう長距離バスに乗りこんだ。

私たちは中国、パキスタン国境であるクンジャラブ峠(4703m)を越え
カラコルム・ハイウェーをぬけてラワルピンディーに向かった。

クンジャラブ峠は標高4703mというところで、そこからはパキスタンの
8000m級の山々を見ることができた。

標高4700mということで私は高山病になるのではと不安であったが、
走ったり歩きまわったりしなければそれほど気になるものではなかった。

カラコルム・ハイウェーは中国の非常に大きな協力を得て、20年がかりの難工事
の末、1978年6月に開通したらしい。

カラコルム・ハイウェーは650kmの道のりである。標高766mのなだらかな
低地から富士山より1000m近く高い4694mまでの高度差の工事は
並大抵のものではなかっただろう。

この道路に投入された人間は約2万人、そのうち犠牲者は1000人とも3000人
ともいわれているらしい。

実際にカラコルム・ハイウェーを走ってみると、緑少ない荒涼とした山の連続で
その工事がいかに大変なものであったかを感ぜずにはいられなかった。

補修工事が今でもいたるところで続けられ、土砂が路上に流れこみ何度か
足止めを食らう場面もあった。

私は学校の授業でペーパーロケーションをしたことを思い出したが、この
カラコルム・ハイウェーも1つ1つのカーブ、縦断勾配を計画し、設計した
ものなのかと不思議に思った。

このような道路を通り、パキスタンのソストという小さな街で入国手続きをすませ、
ギルギットという山にかこまれた街で3泊し、8月12日ラワルピンディーに
向かった。

シルクロード写真集

土田氏のアジア大陸横断旅行記その2